2012年8月12日日曜日

偉大なる記憶力の物語  A.R.ルリヤ

偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫) A.R.ルリヤ、 読破

以前から気になっていた本。忘れない、と言う事、それが及ぼす暮らしとはどんなものか。記憶、音感、描画や、計算力、多くの人があこがれる”才能”、の持ち主の多くは、それを苦悩の種と思っている。誰ものうらやみは、隣の芝生、であり、無い物ねだりなのだ。

ここの主人公、シー と呼ばれる男は、全ての物事を記憶する。それを何年経っても指示通りに思い出す。意味のあることも意味のないことも。

本の最初で著者は、テーマを切り替えたと書いている。覚えることより、忘れる仕組み、間違える理由を探るのがテーマになったと。何を何処まで覚えているかは際限がなく、無限の記憶力だったと書いている。

この主人公のシステムは、我々とは違うかも知れない。かれは共感覚の持ち主だった。言葉や文字、音は固有の絵になって、味になって色になって彼の感覚に表れる。その言葉の語彙ではなく、音や文字の組み合わせに彼だけの絵や写真、味や色がくっついてた。それが記憶になって整理されて保管される。

彼が思い出すときに、希に言い間違える。それはその物の言葉や音ではなく、よく似た色、景色、味、似た共感覚の物と取り間違える、混乱させると言う。

彼は読書は嫌いという。言葉の語彙の現す物と共感覚で現れるイメージがいつもぶつかる。だから言葉の並びは覚えても、その言葉の意味すること、言葉の関連を一切理解できない。物語を読み取ることが出来ない。だから彼の生活の糧は、記憶力のショーになっていた。

人は皆違う。かれも共感覚について、誰もがそうだと思っていた、と語っている。誰もがそう思う。根拠もないのに、”誰もが自分と同じだろう”と。勝手にそう思い込むスイッチが備わっている。

忘れることが進化だろうか、覚えることが進化だろうか。つまり、記憶は仕組みとしてあって、忘れる機能を付加したのか、それとも覚える機能が発達したのか。それを意識するかどうかは別にして。たしかに生き物は生きるために外部環境をとりこむ。全ての生き物は最初の小さな危険を決して忘れてはならない。より大きな危険を回避する手掛かりにしければならない。

小さな生き物から、われわれまで、生き物の仕組みは同じように受け継がれている。

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