2012年8月19日日曜日

記憶、 忘れること、思い出せないこと

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これは、蚕のマユの形をした梱包用弾衝材。生分解性プラスチックと言う事と、発泡にフロンガスでなく、水蒸気を使っている、という点で環境に優しい資材のなれの果て。10年ほど前かな。この写真が分解の途中過程なのか、生分解部分素材部分が分解し終わった合成樹脂部分の残材なのかは判らない。

木廃材とプラスチックを混合した新しい素材の開発、ということで学びに千葉の木更津にある化学研究施設を訪ねた。行きは新幹線で横浜へ。横浜のそごうだったか、高速バスに乗ってアクアラインを通って木更津へ。迎えの車に乗って施設へ。予め送ってあった材を使ってプラペレットをつくってもらった。これを型に入れてプレスすると人工木材製品が出来上がる。その脇で、蚕のマユ型の弾衝材を試作していた。従来のビニルでなくポリ乳酸の剤でフロンでなく水蒸気で発泡させるという新しい物だった。昼は有名だという漁港の魚市場で。帰りはJR内房線で東京駅経由で。館山などという地名を覚えた。

 

これの残骸を見て、そんなことの一連をさっと思い出した。これまで全く思い出したこともない、すっかり忘れていた記憶。もしもこれを見なければ、おそらく思い出すことの無かった記憶。

先日、”ルリヤ:偉大な記憶力保持者の物語” を読んだ。記憶とは、どんな仕組みなのだろうか。忘れる事には、少なくとも2つの種類がある。記憶から抹消された物。もう一つは思い出せない物。どちらも失われた記憶だ。今回の例は後者。記憶には残っていた。それを思い出すことが全くなかった。あるキーに触れて記憶に残されていたことが判った。さらに、思い出せなくて、意識にもまったく現れないけど、覚えている事がある。身体が覚えたり、行動として習慣付いたり、意識しなくても何となく避けたり、嫌悪感が湧いたり。おそらくそれは危険回避の最も重要な記憶だろうと想像する。

 

記憶には際限がないのかも知れない。生き物は産まれてからのあらゆる出来事を、すべて記憶する仕組みなっているのかも知れない。意識上に思い出すかどうかは別問題で、そのデータベースに脳はたえずアクセスし、参照しながら次の行動を決めているのかも知れない。

 

なにかの拍子に、忘れていた出来事を思い出して、自分の軌跡にまた感動することがあるのかも知れない、と思うと、楽しくもある。

2012年8月12日日曜日

偉大なる記憶力の物語  A.R.ルリヤ

偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫) A.R.ルリヤ、 読破

以前から気になっていた本。忘れない、と言う事、それが及ぼす暮らしとはどんなものか。記憶、音感、描画や、計算力、多くの人があこがれる”才能”、の持ち主の多くは、それを苦悩の種と思っている。誰ものうらやみは、隣の芝生、であり、無い物ねだりなのだ。

ここの主人公、シー と呼ばれる男は、全ての物事を記憶する。それを何年経っても指示通りに思い出す。意味のあることも意味のないことも。

本の最初で著者は、テーマを切り替えたと書いている。覚えることより、忘れる仕組み、間違える理由を探るのがテーマになったと。何を何処まで覚えているかは際限がなく、無限の記憶力だったと書いている。

この主人公のシステムは、我々とは違うかも知れない。かれは共感覚の持ち主だった。言葉や文字、音は固有の絵になって、味になって色になって彼の感覚に表れる。その言葉の語彙ではなく、音や文字の組み合わせに彼だけの絵や写真、味や色がくっついてた。それが記憶になって整理されて保管される。

彼が思い出すときに、希に言い間違える。それはその物の言葉や音ではなく、よく似た色、景色、味、似た共感覚の物と取り間違える、混乱させると言う。

彼は読書は嫌いという。言葉の語彙の現す物と共感覚で現れるイメージがいつもぶつかる。だから言葉の並びは覚えても、その言葉の意味すること、言葉の関連を一切理解できない。物語を読み取ることが出来ない。だから彼の生活の糧は、記憶力のショーになっていた。

人は皆違う。かれも共感覚について、誰もがそうだと思っていた、と語っている。誰もがそう思う。根拠もないのに、”誰もが自分と同じだろう”と。勝手にそう思い込むスイッチが備わっている。

忘れることが進化だろうか、覚えることが進化だろうか。つまり、記憶は仕組みとしてあって、忘れる機能を付加したのか、それとも覚える機能が発達したのか。それを意識するかどうかは別にして。たしかに生き物は生きるために外部環境をとりこむ。全ての生き物は最初の小さな危険を決して忘れてはならない。より大きな危険を回避する手掛かりにしければならない。

小さな生き物から、われわれまで、生き物の仕組みは同じように受け継がれている。

2012年8月3日金曜日

御岳登山 2012年8月

 

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年1回登っている御岳へ今年も。

昨年は小雨、雨具で登ったが、ことしは言うこと無しの晴天。しかも涼しい。

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空気を通して見る山々の峰が、その距離に応じて藍の濃淡を描く。飽きない景色

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数分ごとに立ち止まる。足が疲れても休めば回復。生き物の仕組みに感嘆!

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降りて振り返る。雲が出てた。

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2012年6月9日土曜日

エントロピーの法則に従って、

原発を止めれば、電気が足りなくなってそれは経済に支障を生じ国防も危ぶまれ、国民生活に破綻が生じる。一方、原発稼働が続けば万が一の被害は物理的に国の存亡につながる。動力が無ければ触れることも出来ない核廃棄物も破滅的だ。原発だけではなく世界に有り余る原爆も、石油依存が積み上げる紛争の緊張感も凍結できるわけではない。
はたして私たちの逃げ道はあるのだろうか?いつの間にやら逃げ道が無くなっている。強固な安定と安心を目指したはずが、気がついたら今薄いガラスの上に支えも成しに立っていた。行くも戻るもかなわない。言われるまで、足元を見ないで歩いていたのだろうか。
そう思うと、エントロピーの法則を思い出す。秩序や安定は、やがて崩壊へつながる。それは自然の法則。その一方、その理屈は今ならよく判る。ブレーキ、後戻りや減速はその法則通りに無理難題だ。崩壊エネルギーは等比級数的に伸びていくと定義されているが、その通りに目の前で進んでいるように見える。
このままさらに脆い足元を進むか、強い抵抗をあえて押し返して来た道を戻るか。それよりも、立ち止まる余地さえないのだろうか。

2012年5月24日木曜日

快感回路 ---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか

快感回路 ---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか [単行本]
デイヴィッド・J・リンデン (著) 読了。
最近は本を読むのがおっくうだ。もちろん眼のこと。仕事に詰まると気分転換に読む程度だ。これも依存症。

この本は、近年の研究成果、ネズミの脳に針を刺して電気刺激をおくり、ロボットのように自在に行動をコントロールをする話題から始まっている。快さと不快さのアウトプットにより生き物の行動は操作されていて、その繰り返しが習慣となり、やがて依存症になる。アルコール、薬物、セックス、趣味嗜好、興業や信心、豊かさや便利さ、進歩や発展、冒険と発見、希望と絶望。快と不快のぶつかり合うところでひしめき合っているのが、生態と呼ばれる物だろうと思う。

「ヒトは歴史から学べない」という台詞が幾度か出てくるのが印象的でした。その意味はたぶん、学んだことが次の行動の動機にはならない、と言う事だと理解した。私たちは学んだことや理性で動くのではなく、DNAに刻まれた行動パターンから抜け出すことは出来ない。私たちの行動は、ホモサピエンスが現れて以来のワンパターン、産まれ、恋し、争い、奪い合い、嘆く。それの繰り返しをやっている。それは、この惑星の生き物に決められたシーケンス。蜂が蜂の巣を作り、アリがアリ塚を作るのとなじく、ワラで巣を作っていたカラスが針金で巣を作る如く、変わったように見えて実は、おなじ行動をとっている。

満ち足りてると言うことは気持ちよさの追求には無関係。太っても食べる、恋していても別の相手を探す、豊かさの限りない追求。怒り、争いも、残酷さも時には快感を産み出し、ヒトは意図しないなにかに操作される。それを繰り返すのが、生き物のシーケンス。

2012年1月25日水曜日

組手什で勧めること

組手什という組立部材。国産材の建築材などを採った残り部分を活用したくて考えた。<私が考えたわけではないが。>

1,使うことに意味がある。山や森が大切で、その資材を有効に使っていきたいと願うなら。山や森の管理の一助になると考えるなら、どんどん作ってどんどん使かうべきだ。

2,組手什は誰が作って、誰が売っても構わない。我々はこんな物が有りますよ、こんな使い方が有りますよ、と紹介するだけだ。木を使っていこう、という方々は積極的に取り組むべきである。

3、価格を安くすることは考えない。組手什は高く買って欲しい。安い部材でコストパフォーマンスに優れた什器ならば他に選択肢はたくさんある。組手什を勧める意味は、お金の払い方を見直そうと言う意図がある。組手什にまつわる経済が、きちんと廻っていくのに充分な利益を確保しようと想う。充分な利益を得て、その一部でどこかの何かを支援していきたい。「結」や「講」のイメージを載せたい。

 

山の木を使っていこう、と言うなら組手什はどんどん使われるべきだ。

とにかく一度は手にしてみるべきだ。それから更に作るか辞めるかを決めればいい。作るのに難しい物ではないし、辞めるのに困る物ではない。「失敗の引きだしをたくさん」というならばまず乗るべきだ。

 

価格競争に乗って組手什が安く手に入るようになったら、そこからまもなく組手什は消えてしまうだろう。低価格化のために、外材を外国で作って持ち込めば、組手什の形をした棚は誰にも安価で手に入れられる。しかし、その時に破棄されてしまった物に気付く人は居なくなっているだろう。最初に何のために組手什を作ろうとしたのか、は迷い事になる。

大きな事を言うようだが、今の経済情勢もそれと似ている。何のために経済を成長させたのか、その目的が消えて、金の流れという外殻だけが残っている。

会社は従業員に給与を払い、従業員は会社の製品を買って、会社も従業員も豊かになった。カローラからクラウンへ、賃金上昇はそのまま消費の拡大だった。生活に必要な物を求めて、生産と消費のバランスがあった。しかし単に売るために創る、という形はまさに、外見だけの経済である。たしかに物が動けばお金が動く、しかし必要でない物には最低限のお金しか動かない。となれば必要な物(必要だと思っている物)とは高額商品だと言える。ショッピングのレジャー化を断ち切ること。必要でない物は創らない、売らない、市場を創らない。その分を必要な物の経済、賃金へ廻すべきだ。必要な物こそは支えなくてはならない。農業や漁業かも知れないし、継承技術かも知れない。流行でなく、常態的にそれに見合った財を投入しなければ支えられない。それが経済と考える。