2011年2月12日土曜日

うつ、 なるもの。

欝、うつ なる症状がある。多かれ少なかれだれにでも起こって、よくある病気(?)だ。ウツの時と、そうでないときは、何がどう違うのだろうか。ウツは病気で、ウツでないときはまとも、という論理式が成り立つのだろうか。

ウツになると、いろいろな心配と悲観事が現れてくる。何もかもが嫌になり、ちょっと先に不安があり、行動を起こすための動機が失せる。外出して事故にあったらどうしよう、外出中に家が火事になったらどうやって暮らしていこう。ちょっと前の出来事は恥ずかしかった、大変に失礼をした。しなければよかった、行かなければよかった、今でも私の顔を見るたびに思いだしているに違いない、軽蔑しているだろう、批難していると思う。とても顔が見られない。そんなみっともない自分の姿を誰もが見て、軽蔑しているだろう。自分の存在など無用のものだ。

悲観的な考えが次々と出てくる。自分を追い詰めて閉じこもり、時には他人を攻撃する。

ウツの時に想ういろいろな出来事が、現実にあるのかどうか。危険や不安を思うのは誰しもであって、そのなかの僅かな割合で現実の身に降りかかってくる。交通事故、感染症、たわいのない言い争い、嫌な人との出会い、衝動買いの後悔。ウツでの心配事が的外れでないにもかかわらず、日頃人はそれを思わない。気にかからないこともないが、囚われることはない。囚われていては、物事を進められない。

脳には、適当にごまかしてうまくやっていく機能がある。事故の危険があっても、スピード違反をする。今はなくても、かつては飲酒運転は当たり前だった。危険を知っていて人はそれを無視する。論理的にはリスクが高いのに、脳はそれを無視する。だって、、、なんだもん、という言い方で頻繁にごまかす。論理的で筋の通ったような事には確信をあたえて、非論理的な物事にはそれを意識させないでごまかす。考えることをやめさせてしまう。

脳は頻繁に意識をごまかしている。論理的に物事を進めているようで実は、筋が通っていないことはままって、それすら認識されない。喜怒哀楽の原因をだれも詮索しないし、燃え上がって消えた愛の筋道を、だれも詮索しない。検索しないように、脳が操作をしている。論理的な物事など、意味が無いのだけれど、論理的な筋道は信心のように人を捕らえている。