2011年1月28日金曜日

ライオンのあくびと、ヒトの文明

ライオンを見てみる。腹が減ったら獲物を捕りに行く。ふくれたらあくびをして寝る。発情期にはケンカをする。メスを争って愛を遂げる。子供を守り、仲間を守り、時を過ごす。

ヒトの言う文明は、ライオンのあくびの時間に似てる。あくせく働くのも、科学の発展や、想像と発見、危険への挑戦や華やかな芸術、巨大建造物に世界旅行。ヒトはそれを意義ある物と思っている。それが生きる意味であり、喜びであり、使命である。だから、そのために人は生まれた。

これに疑問を呈することは、やはり尋常ではない。世をはかなむのか、世捨て人なのか、はたまた鬱か破壊者か。危険分子になりそうな。

いやいやそうではなくて、生き物の姿と自分の中のなぜだろう?を問い詰めていくと、そんな壁に当たる。価値や目的、挑戦や発見、そもそもそれらを含めた”よろこび”と言うものに、疑問や不審を持たないと言うことが、まず不審である。なぜそれが嬉しいのだろうか?なぜそうしたいのだろうか?なぜそうでないことがイヤなのだろうか。なぜそれらを誰もが不思議に感じないのだろうか。

コレクションは楽しい。全巻集めたくなる。しかしあるとき突然無意味に思えることがある。他人のコレクションは全く無意味だ。なのに自分のコレクションは大切だ。大切って何?大切、と言う感情がそもそも怪しい。一度行ってみたい、一度乗ってみたい。一度見てみたい。しかし一度で終わったことはない。何度でも一度だけが繰り返される。それを不審に思わないカラクリが怪しい。

愛は永遠で唯一無二の出会い。結ばれるか死ぬかの選択。この前も後も一度きり二度とは永遠に来ない。多くのヒトが経験し、または想いあこがれて、それを何度も繰り返す。これが一番怪しい。だれもが平気な顔でこれを言い、世界中のだれもが認める気の迷いなのだ。いい加減なことをそしらぬ顔で忘れている。そんなヒト同士が厳格な法治国家、契約社会を築いていく。そんなものなぜ信じられる?

適当なときに厳格になり、時にいい加減で、泣いたり怒ったりの説明は一切着かず、いつも誰かが深刻で、悩みのほとんどは脳内での気まぐれな妄想で、そのようになった試しはない、と誰もが経験してるのに、気がつくべきは悩みの事柄内容ではなく、悩む行為、が焦点なのだ。

そう思っていくと、喰って寝て、子供を産んで、時にケンカして、それ以外はあくびをした方が、地球上の生態的には合っていると言うことだ。

2011年1月4日火曜日

音楽のこと、、、3

音楽のことを、なぜ僕は関心を持ったのだろうか。それをあれこれ思い出してみた。そうそう、”ハロルドクローアンズ、失語の国のオペラ歌手を読んだからだ。その前に、オリバーサックスの、パーキンソン病の記事。言葉と音楽はどうやら似て非なるものらしい。脳機能障害の症状に”失語症”というものがある。脳溢血、脳梗塞などで脳神経の一部がやられる。言葉やその理解、複雑な運動は脳の表面、大脳皮質に配置されている。ここの神経が壊れる。機能しなくなる。”失語症”はその症状である。その書状ははいろいろな段階がある。音の解析、言葉の抽出、語彙の理解、文の組み立て、字の認識、応答の組み立て、その発声のこと。障害部位によって、理解の障害、発声障害、意味不明な発話、などやそれらの複合の症状があらわれる。パーキンソン病でも痴呆の症状で発話障害、言葉に理解に障害があらわれる。

しかし、音楽は別だ。失語症患者でも歌はべつえ歌うというおどろき。ハロルドクローアンズの書籍ではそれを知らなかった著者が驚きを記している。発声の運動を司る神経が機能していないにもかかわらず(診断の結果)歌を歌う。言葉とは別系統の声帯への経路がある。患者が自らは歌い出せない歌を、誰かが歌い始めるとそこにつれて歌い始める。パーキンソン病でも同じ。自らは歌ったり言葉を発したりは出来ないが、誰かに吊られて歌い始めると、そのあと歌い続けることが出来るという。

その不思議を思い返すとは、我々が唄と歌詞、歌詞と言葉を同じ物と思い込んでいることにある。ヒトは勝手な根拠で意味も無く物事を決めつける。声や言葉が無くても音楽は楽しめる。唄うとと聞くとは別物だし、それはヒトに限らない。

音楽と言葉は別物なのだ。音楽は言葉よりはるか先にあった。言葉の前に音楽、音ではなくてメロディやリズムがあったという。言葉はそれに載っただけ。そう言われると、多くのことがすっきりとする。感情への訳のわからぬ不思議な揺さぶりが音楽にはある。理解が必要な言葉ではなく、聴くことがそのまま感情に及ぼすゆらぎを思うと、音楽は意識下の何かの仕組みにダイレクトに響いてくる。それはヒトの現れるはるか以前、ヒトの意識を持つ以前にどこの種が獲得したものなのだろうか?音楽に始めて浸るヒト以外の種。それ以降、多くの種がおそらく、音楽の楽しみを感じていることだろう。

2011年1月3日月曜日

音楽のこと、、、2

音楽はどんなときに、どんな効果を及ぼしているのだろうか。宗教活動に音楽はつきものだ。お経はそれに当たる。お経の低い、抑揚の少ない音脈は気分を落ち着かせて、集団にリズムの一致を産む。同じく、教会における聖歌ゴスペルは集団レベルで気分の高揚を産む。アメリカの自由運動で多くの人が同じメロディを口ずさんで戦争反対を訴えた。ナチスはワーグナーをイメージソングとし、多くのヨーロッパ人はその曲を嫌い、ドイツ人はそれを好む。こうみると音楽は主に集団に用いられて効果を発し、全体の気分、雰囲気を制御する。コンサートに集まる人々の熱狂振りや行動の統率、えも言われる陶酔は行き過ぎ感があり、映画やドラマでのバックグラウンドミュージックは、緊張と緩和をコントロールする。

音楽は集団を制御する、というのが今のところの結論のようである。

「音楽の感動を科学する 福井一 奈良教育大教授」という本を読んだ。思い当たる節を脳裏に浮かべながら読んだ。音楽によってとテストステロン(性ホルモン)分泌の値が上下する。これはヒトの気分に関わるもので、イライラしたり、落ち着いたりという症状が現れる。音楽の及ぼす影響の化学的な裏付けがなされた気がする。

生き物は食と性の波に翻弄されている。多大なエネルギーをつぎ込んで気がつけば大変に疲れている。どちらも大変に重要な課題で、それから開放されるときにやっとやすらぎが訪れる。その情動と焦りから開放されたい時、音楽は確かに効いている。音楽は気分を動かし、ヒトは音楽を奏で、唄い、心躍らせる。

音楽、、、、それは言葉以前に獲得したものかもしれない。われわれは唄(言葉)と音楽を一緒に考えてしまう。セットされたものだ。しかし、言葉のないところにも音楽はあり、音が続けばそこに音楽が産まれる。音の羅列は自然界にあるが、その羅列を意図的に続けていくときに、音楽がそこにある。音楽を言葉と切り離したときに、音楽がもっと生き物として原始的な部分の機能だと気がつく。音楽は言葉の獲得以前にわれわれの本能部分を揺さぶるものだったのだ。だったら、ヒト以外に、ヒトの以前に音楽を見つけ、その感動に浸っていた動物がいるはずだ。彼らは今も、私たちヒトが感じているのと同じ音楽を聴いたときに同じような情感に襲われる、と言う事は充分にあり得ることだ。

言葉の理解を経ずに、気持ちを揺さぶる。音楽には国境はなく、種の壁もないのかも知れない。