2010年1月22日金曜日

脳は何でも信じる~妄想の共有

私たちは何でも信じる。根拠もなく、裏付けもなく、ひょっとした拍子に信じ込んでしまう。”信じる”と言うことはなんら難しいことではない。脳の中の"信じる”というスイッチが入るだけ。その細胞が神経伝達物質を放出すれば、それが信じること。

人それぞれに勝手にいろんな物を容易に信じる。正義、正論、真実、事実、理論、理屈、こだわり、筋道。信じればそのとおりだし、信じなければ虚空となる。おなじように、貨幣、証券、所有、ブランド、宝飾、逸品、それらも落ち着いて考えれば、信じた時にその価値が存在し、疑った途端それは霞のごとく消え去ってしまう。有る数以上の人々が信じたときに社会通念上に実存する。しかしそれはやはり個人の脳の中に存在する物だ。

個人的な最も端的な例は、恋愛だ。生き物の最も大切なものは生殖、増えることだ。何よりも優先される。自分や誰かの命、輝かしい軌跡や未来の可能性も、何もかもが恋の前にはどうでもいい一抹のチリなのだ。子孫を残すためにそれこそ、思慮分別のない盲目的な行動ができる。愛する人は容易に現れる、客観的に見ればそう。誰もがどこかでも恋を望み、愛を探している。運命の人は容易に初対面で突然、あたかも必然のように現れるし、知らぬ間に霧のように消える。恋に落ちるときも、恋から醒めるときも、何の根拠もなく、事由もなく、前触れや伏線もなく、現れて消える。正に夢のよう。

しかしだ、恋に落ちた者は誰も、その必然や運命を疑わない。確固たる信念と確実性、無限大の確率の母数の上に立って、唯一惹かれ合った奇跡を疑うことは、決してない。その希少な確率はすぐ隣でもあちこち、あらゆるところで起こっている。それは矛盾でなく、不思議でなく、そもそも計算や検証するものではない。つまり、”それほどの奇跡が愛し合う二人の間に起こっている”、と脳がささやけばそれが唯一無二の真実になる。生き物は、なにがあろうと、どんな理由でも、どんな感情であるかはどうでも良いこと、元気な子孫こそ、DNAに書き込まれた指令なのだ。

社会では、宗教、神話、聖書、UFO、それから、文化や文学、宇宙や世界観、物理や化学、進化や人種、あれこれ全ての物が、全ての人が根拠を持ってい確信しているわけではない。根拠そのものも妄想に過ぎない。脳の創造物、想像の世界だ。地球は丸い、と多くの人が訴えれば、少数の人はそれを信じないと社会で暮らして行かれない。”信じるスイッチ”はその時入る。天地創造の世界、誰かがそれを唱えて、多くの人がそれに賛同する。その時それは真実で、揺るぎのない事実となる。神も天地創造、聖書の世界が基盤となって社会が成立する。同じように、冒険、進歩、意欲、成功、成果、目的、なぜそれが必要で、それが大切だと思うのか。それも、”大切のスイッチ”が入っているからに違いない。”そうでなければならないスイッチが入る” から、それが大切で、生きる目的で、正義や正論が生まれる。信じる者には確固たる根拠や確信があり、信じない者には全てがまやかしだ。そして、それは疑わないように仕組み作られている、システムは自らに疑いをもたない、システムは決して立ち止まらないものだ。動いていてこそシステムで、停止は終了になる。システムは次々と処理を続けていかなければならない。

2010年1月2日土曜日

ヒトは何でも、簡易にじる。

脳の中に、”信じた”、というスイッチがあるらしい。いろいろなタイミングで、ヒトは何でも信じる。地動説や天動説、進化論や天地創造、人種偏見と純血主義、天文、地学、遺伝子、素粒子、運命の出会いと離婚率の高さ。

生き物の進化速度から見れば、ヒトは何万年も変わっていない。だから、上記のことは何万年も全てのヒトに繰り返されてきたありきたりの出来事だ。信じたり疑ったりには、何の根拠も要らない。裏付けも研究も経験も膨大なデータも、何の関連が無くても、信じるときには根拠ができる。だれもが確固たる根拠の元に、あらゆる事を信じる。あるヒトは右が真実で、隣のヒトには左が真実なのだ。互いに説明は出来ないけれど、互いに譲ることのない信念を持つ。

信じたり、こだわったり、信条にしたり、それはそれ以外の者ではダメなのだ。絶対的な信条がある。しかし、別の人間には何の意味も無い。全ての正義と真実は、その人だけに有効な、個人の物だ。その人以外の誰にも意味が無く、信じられず、どうでもいいことなのだ。

”それが真実だ”、のスイッチは容易に入る。”運命の人に出会った”、スイッチと同じだ。そして、ヒトの数だけ世界が出来上がる。だれもが、自分以外の世界の侵略に備えて、争いが日常に起こる。