2010年8月7日土曜日

確信を疑う 2

人は外界から刺激を受ける。五感と呼ばれるそれは、視聴触嗅味、そして第6感。これらの情報をあつめて外界の状態を判断し、意思と行動を決めていくのが、”脳”の役割らしい。意思、意識、自己、こころ、自我、そういったものなのだろう。

それらの入力情報に対して、様々な処理演算の結果、出力されるのが、意思であり、行動、そしれ感情だ。喜怒哀楽、は、外界からの様々な刺激の結果、自分から外界へ返される信号だ。感情は行動の基になる。喜びと楽しみは、それに再度向かわせ、怒りと哀れみは、排除、回避に向かう。人の意思は詰まるところ五感から入って感情へ返される。(理数系ではこれを関数、函数、という)

感情の根拠になるものが”確信”だ。あやふやなものでは、感情を裏付けできない。行動の基になる喜怒哀楽には、確固たる裏付け、信念、法則がなければならない、根拠が必要である。自我、個性、パーソナリティーとは、法則性、規則性、再現性を持った応答でなければならない。ある人が毎回別人の名を語られては、その人を特定できない。人がもし気まぐれで喜怒哀楽を示し、同じ事に出会ったときに毎回違った感情を示されてはお付き合いができない。それは統合失調症などと呼ばれる範疇になる。

人が感情を基に行動し、感情を裏付けるものが”確信”だ。”それはそうでしょ、そうにきまっている、そうでなくてはならない。だって、、、、、”。しかし、感情がどれだけあやふやなものか、我々は知っている。感情的か理論的か、などのように背反する意味に使われる。しかし、感情的な言動に走ったとき、その言動は確信のないあやふやなものとは言わないだろう。主は必ず”間違いのないこと、当たり前だろう”という。だれにとっても全てが”当たり前で確信したこと”である。100人いれば100通りの異なった”間違いない事”がある。誰でもそれを”確信”していて、誰もそれを疑わない。

信頼、会話、仲間意識、好意、そういったものを、”確信する”根拠はどこにもない。消えるときは容易に消えるし、それは信じているときは間違いのないもので、疑った途端にあやふやなものになる。それはいつでもどこでも、瞬時に起こり、立場、見方、足元が全く逆転する。それは、脳がそう思った途端に、起こる。それは集団でなく、個人レベルで起こる。

”確信”は相当容易に”不審”に変わるしその逆もまた可である。神の啓示は瞬時に人を変える;。かわいさ余って憎さ百倍だし、昨日の友は今日の敵、”あれは実はそうだったのか”と突然事柄の意味が変わり、あれだけ熱狂したアイドルが今日はもう消えている、バーゲン会場の展示があまりにも素敵だったのに自宅で明けた袋からはそれが消えているし、それがあればもう何も要らないと何年もかかって手に入れた物は知らぬ間に2番目に欲しかったものになる。

”確信”は、確かでも何でもない。”確信”は、”迷い、惑わし”ともいえる。しかし、ヒトはそれを疑うように造られていない。

0 件のコメント: