2010年7月25日日曜日

コウノトリは選べない

産まれてくる子ども達の何%かは障害を持っている。それは生き物の精密さ、緻密さの裏返しであり、ダイナミックな命の、大きなうねりの中の出来事なのだ。だから、資質や組み合わせ、道徳やあらゆる概念には無関係に、様々な形態の新しい命が誕生する。生きられる者、生きていけない者。かろうじて短い命を持つ物、それらは確率的な分布を持ってコウノトリが運んでくる。誰のせいでもなく、誰のとこへでも、問題を抱えた子供は運ばれる。くじ引きであり、運不運であり、運命であり、全てが授かり物だと言うこと。そして、どんな状況でも、喜怒哀楽は同じように存在する。

だから、誰の物でもなく、誰に押しつける物でもなく、みんなで支えていくべき物だと想う。

社会生活を営み、社会同士が絡み合い、距離を超えて絡み合うとき、子供はやはり個人の持ち物ではないと感じる。次世代という社会を構成する一因であり、前世代を支え、次世代に支えられる。それも流れの一部であり、私もその一部である。誰もが流れの一部を構成しており、隣だろうと離れていようと、無関係ではいられない。

同じように、人は他人の持ち物にこそ、快感が潜んでいると妄想する。自分の喜びの素を他人が持っている、と多くの人が思い込む。そんなことはあり得ないのに。だれも他人を喜ばすことを自分より優先することはない。つまり、自分が嬉しいことならば他人も嬉しいはずだと思い込む。なんの根拠も無しに。根拠を想う事もまずありえない。自分を喜ばすのは自分なのだ。他人が喜ばしてくれるのは共通の目的があるときだけ、たとえばそう、子供を持つとかね。恋は盲目なのだ。

誰も選べない、何も選べない。あなたの道に、喜びが置いてある。

0 件のコメント: