2010年12月30日木曜日

音楽って、、、、

聴覚は三半規管が担っている。つち骨、あぶみ骨、きぬた骨、という骨が音の伝達と身体の平衡を担っている。その奥の蝸牛には聴覚神経細胞が、周波数ごとに多数並んでいる。耳に伝わった振動をそれぞれの神経が受けて電気信号を起こす。脳でそれを分析、感覚情報として利用されて、一部が意識層に上がってくる。

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音楽の要素は、リズム(周期)、メロディ(旋律、周波数)、ハーモニー(和音、音程差)。生き物は進化の過程で坂道のように連続して様々な機能を獲得している。そこには崖もなければエレベーターもない。いろいろな生き物が少しづつ獲得し、または秘匿してきた能力の組み合わせが、いろいろな条件で発現し多様な生き物の機能を獲得している。私たち人の機能も例外ではなく、系統樹上の先人たる多くの生き物の得た機能を引き継いでいる。五感やそれ以上の物を多くの生き物が持っていて、人の特徴足る物はほとんど無い。言葉などはコミュニケーションの道具として便利なようで実は意味が無い。生きて増えて行く分にはあってもなくても構わない機能だ。意思の疎通ができ系統だった集団行動が出来れば声の役割は十二分だ。

さてしかし、音楽はどうだろう。ヒト以外の生き物で音楽を感じている、使っている生き物はいるのだろうか。そしてヒト以前に音楽は地上に存在したのだろうか。そんな疑問を持つ。

ヒトにとって音楽は不思議な存在だ。聴覚刺激に違いないのだが、脳を揺さぶり、胸を打ち、感情を揺り動かす。見たり触れたり、味わったりする刺激と異なり、音は遠くから聞こえる。遠距離のセンサーなのだ。危険を察知したり様子を覗うものであり、危険かどうかが判ればいいような気もする。そもそも感情を動かされるという事が不思議だ。聴覚によって記憶の中の出来事が思い出されてそれに伴って感情が揺れる、と言うのであれば誘因と言うことで理解も出来る。しかし、音楽はそれ自体単独でヒトの感情をゆさぶる。それもある法則に従ってヒトの感情を規則的に動かすことがある。音楽は脳の感情的な動きと連動し、再現性を持っている。

音楽は、感情をかなり強烈にゆさぶる。だからひとは音楽の虜になる。依存性があり常用性があり、暴力的なこと、一過性であることを除けば麻薬のようであり、訳も判らず昂ぶったり泣いたり叫んだりは、宗教家の祈りの大イベントのようである。聴覚の刺激だけで、感情の波は、嵐のようにふぶいたり、凪のように落ち着いたりする。短時間にしかし突然に。

音楽の三要素のうち、リズムは自然界にいくらでもある。心音鼓動はまさにそれであり、波の音、雨のおとはきれいなリズムだ。メロディ、つまり周波数の連続的な変化は、なんだろう。風の音?セミの声(羽音)。ハーモニー、いくつもの周波数の規則的な変化とは、どんな例があるのだろうか。ミツバチなどは羽音を様々に変えて複雑な情報を伝達しているという。群れて飛ぶ渡り鳥は、仲間の翼の風キリ音を聞きながら位置を調整し、コースを選んでいるという。かれらはある規則的な羽音に、やすらぎや好感、またはイライラや気持ちの高ぶりを納めているのだろうか。

2010年10月26日火曜日

やっぱ、石油だなあ、と

人類の切れ目は、やはり石油だなあと、あれこれ思うのです。COP10をやってて、100年後、200年後の地球環境を考える、と言っているけど、わたし的には、200年すれば、自然と環境問題は解決すると思ってます。100年かも知れない。地球環境の問題よりも、人類の存続の方が時期的には短い、と思うのです。ヒトのこと心配している時じゃないでしょ、と言いたいけど、、、誰に?

いつの時代でもどこででも、エネルギー補給の切れ目が文明の切れ目だった。石油以前は木材。資材、燃料、食料、それらの賄える範囲内でしか文明は続けられない。それが亡くなれば、ある分だけのヒトしか生きられない。地球上の系とはそう言うもので、ヒトもそれに属している。イースター島に起こった文明の消滅がは、生態系の長いスパンでの日常的な出来事なのでしょう。

石油が足りなくなれば、この文明は終わる。代替はない。石油に始まった繁栄だから、石油と共に終わる。太陽電池も風力も、原子力も、詰まるところ石油が支えている。まず石油に替わる運送手段はない。そして鉄も樹脂も小さな部品一つ出来ない。食料だってもちろん隅々まで確保できないし、その保存もままならなくなる。輸送、保管が出来なければ、食べきれない以上の捕獲はなくなる。その日その地域で食べる量が採れればよい。石油以外のエネルギ-では、今の爆発的な消費を支えられない。中国や、インドの人々のさらなる消費がすでに、その時代を予測している。そしてもう誰もそれを駐められる範疇にない。対数的な立ち上がり曲線の今は手の届かない遙か彼方だ。

石油が減れば、ヒトは何も出来ない。おそらくただ残り物を奪い合って争うのみ。適正な数まで、何らかの形で減っていく。どうやって減るかは問題ではない。人類が減れば、自然の誰か、何かかがはそれを補う。石油の盾無しに自然を押さえ込むことは出来ない。雨風、冷暖、水の確保でさえ、長い時間の学びがなければ難しい。

それが出来るのは自然をあがめた暮らしをする人々だ。星を読み、風に聞き、水を撫でられる人々が、いくつかの命を自然と取り引きをして、住処を造っていく。石油のない世界で生きられるのは自然に選択された人々だ。かつてヒトをおごった者はそこにはいない。山や空をあがめて、いくつかの精霊の声を聞いた者がそこに居るのだろう。

だから、消費は麻薬と何ら変わりはない。エネルギー消費症という麻薬患者は、今では当たり前の人たちを差す。

2010年10月15日金曜日

自由競争とは、個対個の弱肉強食関係

物の価値が、需要と供給で決まる、市場原理、それは強者の言い分。その物が何であれ、そっぽを向けば安くなり、人気をあおれば高くなる。それはまるで証券市場のそれで、要不要にかかわらず、強者がそれをもてあそぶ。

 

物の価値とは、原価の積み重ねで決まるべきだと思う。その生産に対するエネルギー投資の量で決まるべきだ。具体的には、それを生産するために何人工必要だったか。その人工がさらに再び同じ物を提供できる分の糧と資材を得られなければならない。そうでないと循環しない。その物が永遠に消えてしまう。

市場原理とは、自由競争、弱肉強食。弱い物はえさになり、強い物がそれをむさぼる。しかしそれは自然の摂理ではなく、人間の欲の賜。生態系は、(BiologicaalSysytem) 皆殺しにはしない。強者だけが生き残ることはない。弱者が消え去ることはない。それはつまり、系(System) だからだ。系は全体で一つの機能を果たす。系に属する物それぞれが役割を担っている。だから、誰かが占めて、誰かが消えることはない。入れ替わることはあっても、系としての体系は維持される。そこには弱者も強者もない。互いが依存関係にある。

強者が弱者を駆逐するのは、それができるのは、個々が独立しているからだ。個であれば、互いを消しても構わない。自らに影響が及ぶことはない。だから、テリトリーがあり、境があり、部族、習慣、民族がある。それぞれが独立した自我を持つ。それぞれは相手と利害という関係しかないと思っている。そこには系はない。だから安心してつぶし合える。

生態系は、系なので、それぞれが関連している。全体で一つの目的をめざしている。それぞれはそれぞれの大きさで蠢き。現れて消えて入れ替わりはある物の、全体としては平衡を保っている。生態系の目標は、時を経ること。生き延びること、複製し続けること。それは、系全体の意思。それぞれの種が消えたり現れたりは、茶飯事なのだろう。

2010年9月26日日曜日

欲望の果てしなき迷い道

未開と文明、山と都会。たとえば哺乳類などヒト以外の生き物の姿を見ると、何が楽しいのだろう、何を目的にしているのだろう、幸福感、満足感はどこにあるのだろう、と思う。

ヒト以外の動物に幸福感や満足感はない、とは思わない。生き物の構造としては同じだから、何かを求めそこへ向かい、何かを恐れ、回避、拒否する仕組みはおそらく同じだろう。行動を選択するときそこには動機となる感情がある。身近な犬や猫を見ればその喜怒哀楽は伝わる。

科学や探求探検、発見や発明、身体美や美食の追求、様々な芸術、健康や長寿への欲望、羨望や統治、支配欲、様々な欲望が限りなく膨れあがる。欲という言葉に対し、充足という言葉はかなり惨めだ。時折訪れるわずかな充足に味を占めて、欲への焦燥感はいっそう大きくなる。もっと自然の神秘の解明を。もっと遠くまで、もっと深くまで、もっと物質の元まで、もっと便利に、もっと豊かに、もっと美しく、もっとおいしく、もっと楽しく、もっと元気に、もっと長生きで、もっと着飾り、もっと頂点へ、もっと広い領土、もっと多くの資源、もっと、もっと、もっと。

欲への渇望に休憩はない、あきらめは許されない。そこには残酷な報復が待ち受ける。挫折感、絶望感、自己嫌悪、焦燥感。それは自らを攻撃すると共に、周りを巻き込む。イライラ、.攻撃、やるせなくてやりどころのない気持ち。それは欲の大きさに準じて大きくなる。偉大な目標は誰もを蹴散らして、多くの犠牲を誇りながら進められる。

欲とは、よくある例えのように目の前にぶら下げられたご褒美だ。その魅力的なご褒美はすばらし快感を永遠に手に入れらそうな、そんな気にさせる。とても抗えない仕組みを生き物は備えている。そして約束は守られることはない。目の前のご褒美を手に取った途端、その向こうにもっと良いご褒美が現れる。いや、手に取ったご褒美が偽物の模造品だったと気がつくような気分だ。

生きることと、増えること。具体的には食べることと、産み育てること。おそらく、欲とはそのためにあるのだろう。その2つにいつも餓えていて、不安であり、そのことをいつも考えている。それが満たされたしばらくの間幸せをかみしめて与えられた物に感謝する。それ以外は様々な苦渋をうけいれても損のない取り引きだ。時々飢餓に襲われ、産まれた子の何割かが亡くなり、暑すぎたり寒すぎたり、病や怪我に冒され思うようにならないけれど、もう一度日の出を見られて、赤子の声を聞いたとき、それらはすべて払拭されて何かに感謝せずにはいられなくなる。

脈々とつづいていき生態系の形はそう言った物だろうと思う。生きることと食べることが満たされてしまったとき、欲望の使い道を迷っている。手当たり次第に向けられる欲望と焦燥感。明日を生きられることと子供が育つことが当たり前になってしまったから、欲望の矛先はどこに向けて良いか判らない。

満たされることのない、.果てしなき迷い道に入ってしまったようだ。

2010年8月17日火曜日

人の操作された真実。

与えられたものしか判らない。与えられた物しか見えないし、与えられたものしか聞こえない。我々の意識に上ってくるものは全て、フィルターが掛かっている。全て検疫済みなのだ。事実は事実でないし、正義は正義でなく、悪は悪でない。とても”冷静”と呼べるものは何ひとつない。私たちは誰かにしっかりと捉えられ、鎖でつながれて、言うことを利かされている。悪だと言われれば悪で、正しいと言われれば正しい。良い人も悪い人も、ただ言われるがままにそれぞれの世界を造る。

人は、争いが好きだ。イライラは頻繁だし、嫌いな人は多い。あれもこれも気に入らないし、思い通りにならない、誰もが自分につらく当たる。一通りの挨拶まではだれもが良い人だ。愛嬌があって丁寧で、礼儀正しい。しかし、数時間も同席すれば、アラが見えてくる。変な臭いがする、仕草が下品、言葉がぞんざいで、敬語がおかしい。悪口が多くて、自分だけが正しいと思っている。私に賛同を求めるがその身勝手にはとても同意できない。そしてそれは特定の人ではなく、誰とでも起こる。あなたは適当な誰かと長い時を一緒に楽しんで過ごせるだろうか。

人は羨望されたいけど、平等に扱われたい。ひいきや不正は嫌なのに、自分だけが優位になりたい。相手には許し難いことが自分にならば受け入れられる。誰かが贅沢をするのは腹が立つけど、他人のひもじい姿を見て自分を責めることはない。でも、トップになりたい、あいつのあとだけは死んでも嫌だ。

自分の事実は間違いなく事実だ。幼児期の記憶も、躾けや教育も、あがめる神は絶体的正義で、その対抗は敵であり悪魔だ。ある人にとって聖書は絶体であらゆる科学とは別次元の出来事だ。コーランを認める人は人格があり人権があるけど、認めない人はそれらの資格がない。ビッグバンや量子の構造は常識で誰でも認めるべきだけど誰も見たことが無くて証明もできない。

私たちは解り合える。愛し合えるし、神の啓示も聞ける。誰もが幸せに微笑んで過ごすことができそうな気がしている。戦争は誰もが嫌うし、殺人は絶対悪だ。博愛は誰の心の根底にもある。平和のためなら自分だけが頭を下げてもいい。

本当に?それは真実?あなたの見ている世界は本当にそうだろうか。ひとは国教や宗教をすてて、殺し合いをしないで居られるだろうか。愛すべき人の偶然の死を、誰かのせいにしないで済ませられるだろうか。確率的に起こる不合理をうけいれて、自分だけの不幸を仕舞っておいて、そうでない人と一緒に笑えるだろうか。哀しみは憎しみを生まないだろうか。憎しみは人の内なる場所で、はたして解消できるものだろうか。”だって私なんか、、、、”

憎しみは誰かの悔しさでしか解消できない、それが現実ではないだろうか?

憎しみは、逃げ惑う人を打つことでしか、消し去れないという事実をなぜ認めない。

解り合えることなど無く、平等など起きた試しが無く、少しでも前に出たいし、永久の愛は偶像しか対象にできない。

世界のあらゆる場所で、膨大な数の、絶体の永遠を誓った愛が、わずかな時間で消えていく。それをいつでも誰でも疑うことがない日常的な出来事、なのにそれを認めることができない仕組みはなんなのだろうか。

ただ増えるために都合の良いモノしか存在を認めない仕組みは、生態系、エコロジー という。

2010年8月15日日曜日

いじめる脳、排除するDNA

”ばかにするな”と言う言葉。これはつまり、”オレはおまえより序列が下ではないぞ”と言っている。これはほとんどの人が使うから、ヒトのほとんどは、”自分が序列の上位だ”と思っている、ということなのだろう。ヒトはいつも、だれかとの”序列”を気にしているし、だれしも自分はその上位にいると言って譲らない。そしてそれはいつも争いや憎悪、イジメの基になる。

ウイリアムショックレー は、ノーベル物理学賞を取った。トランジスタの発明である。ショックレーはセミコンダクタ社、フェアチャイルド社などシリコンバレーを産んだ偉大な功績があり、彼の部下はやがてインテルを創設する。半導体のルーツというわけだ。彼は優生学に関心があり、偉大な頭脳は意図的に残すべきだとし、いち早く精子バンクを設立している。科学的に見て黒人は白人より劣っているなどと言う発言や、ノーベル賞受賞者の精子提供を設立し物議を遺している。その彼自信への人間的評価は高くない、というかかなり酷評だ。いじめや、好き嫌いに対して病的だったという話しも聞こえてくる。

優れた人間、劣った人間とは、いったい何だろうか。残すべき資質、駆除すべき血筋、そんなものが存在するのだろうか。と尋ねれば、多くの人はいくつも思い当たる節があり、暴力や他宗教や、オカルト集団、あれこれと上げるだろう。おそらく、人は誰も皆、自分の資質と対抗する勢力は駆逐すべき候補に上げるだろう。自分のお気に入りは未来永劫残るべきだと。そう言った方向性は、人に、いや、生き物には間違いなくある。生き物には自分を活かし、他を駆逐する指向性が組み込まれている。

訳もなく、根拠もなく、降って湧いたように、”自分はエライ”。自分は正しい、正義は自分で、理路整然と説明ができて、とても判り易い。だからそれが理解できないことがすでに、自分以外の人が劣っている証拠である。

自分の家系はエライ、自分の一族はすばらしい、自分の国こそ未来へ残すべきで、自分の宗派、教えこそ人類を救い、自分の人種は他の人種より明らかに優れている。しかしそれは、全ての人の適当な思い込み、幻覚なのだ。全ての人がその幻覚を疑わないように仕組まれている。だからそれは、当たり前のこと、なのだ。

解剖学的に、人は1種である。亜種も何もない。地球上の人は皆同じ遺伝子、同じ構造、仕組みを持っている。それは、例えばパソコンで同じCPU,、ロジックを持っているようなものだ。OSも同じ。しいて言うなら例えば、デスクトップの画面にメッカの写真が貼ってあるか、毛沢東なのか、自由の女神なのか、水着の写真なのか、という程度の違いであろう。優も劣も凸も凹も無いのだ。すくなくとも排除したり優遇したりするほどの差異はない。好き嫌いがあるとすれば、”きまぐれ”以外のなにものでもない。いい加減な脳のなかのロジックの果てに、お気に入りフラグが立つか、イライラフラグが立つか、時の運にすぎない。気まぐれが争いの基。すべての生き物は意味も無く争いをしている。全ての生き物が子を産むくらい当たり前に争いをする。そう言う仕組みなっている。だって、だれも好きやキライの基を知らない。ただ、底なし井戸のような奥底から気まぐれに沸いてくる喜怒哀楽の感情のまま、惚れたり罵倒したりする。

”だって、キライなんだもん” という、アレである。

2010年8月12日木曜日

なぜヒトはエイリアンに誘拐されたと思い込むのか。

”なぜヒトはエイリアンに誘拐されたと思い込むのか。” という書籍を読んだ。早川書房、スーザンAクライシー著。2005年

「UFOを見た。宇宙人に会った。エイリアンに誘拐された、そして人体実験された。」。そう主張して譲らない人々が全米に何万人もいるそうだ。アブダクター(誘拐者)と言うらしい。著者はそう言った人に会い、話を聞き、質問、分析し、そこに何があったかを調査した。間違えないで欲しい、著者はUFOや、エイリアンの有無、見た物の真偽を調べたのではない。そう主張する人々の心理や思考経路を調査したものである。著書は心理学を学んだ大学のマスターなのだ。

”UFO”が見られるようになったのはいつ頃からか。そう主張する人々が最初に現れたのはいつ頃で、どのようにして増えたのか。最初に何があって、それは時間、時代と共にどう移り変わって行っているか。そこに見られる現象、事象は何だろうか。著者はそれらのグループとコンタクトを取り、聞き取り調査をしていく。

”信じる”ということは、かなり容易なこと。ヒトは簡単に物事を信じて、それが事実であろうと無かろうと、自分の生い立ちにないものでも、ちょっとしたきっかけで信じてしまう、思い出の軌跡に組み入れられてしまうのだ。

ある時代、生まれ変わりや、多重人格、幼児期の虐待に関わる問題の解決に、催眠術が頻繁に用いられた事があった。催眠術は被験者の意識のそこに隠れ潜む事実を呼び起こし、抑圧され曲げられていた真実を表に現すものだ、と考えられた。しかし現在の精神医学はそれが間違いだったとなっている。催眠術で呼び起こされたおどろおどろしい幼児体験や、忘れ去られていた不幸な出来事の多くが、実際は催眠術者による作り話しで、被験者はそれをいとも簡単に事実と認めてしまう、と言うカラクリだった。医者の言う”かもしれない”は、容易に"そのとうり”となってしまう。実体験でもない出来事を、過去にあったかのように教え込むのは、とても容易なことだと判った。数分前まで根も葉もない事柄が、突如疑うべくもない真実の記憶になるのだ。

話を戻そう。UFOを見た。宇宙人に会った、という話しは昔はなかった。それは話題が宇宙に目を向け始めてから、SFドラマで紹介されてから、テレビの特集が放映されてから突如に増えている。それが引き金になったのかも知れない。しかし、彼らの話、多くの人々の間で宇宙人の姿やUFOの形は驚くほど似ている。一方、放映されなかった部分の供述はそれぞれが全く違っていてあいまいで、あやふやだ。

ヒトが体験した事実、歴史、幼児体験は、それが本当かどうかは誰にもわからない。その人がそうだった、それを体験した、記憶に残っている、と言えばそれはその人にとってまぎれもない事実だ。そんな馬鹿なことはない、ということを証明したって証明した本人にとっては解明されても、第三者にとっては何の解明にもならない。実際に感じたかどうか、がそれを決める。見た者には事実で、信じない者にとっては虚実である。宗教も経済も、アイドルも科学もそれは同じ事なのだ。

2010年8月7日土曜日

確信を疑う 2

人は外界から刺激を受ける。五感と呼ばれるそれは、視聴触嗅味、そして第6感。これらの情報をあつめて外界の状態を判断し、意思と行動を決めていくのが、”脳”の役割らしい。意思、意識、自己、こころ、自我、そういったものなのだろう。

それらの入力情報に対して、様々な処理演算の結果、出力されるのが、意思であり、行動、そしれ感情だ。喜怒哀楽、は、外界からの様々な刺激の結果、自分から外界へ返される信号だ。感情は行動の基になる。喜びと楽しみは、それに再度向かわせ、怒りと哀れみは、排除、回避に向かう。人の意思は詰まるところ五感から入って感情へ返される。(理数系ではこれを関数、函数、という)

感情の根拠になるものが”確信”だ。あやふやなものでは、感情を裏付けできない。行動の基になる喜怒哀楽には、確固たる裏付け、信念、法則がなければならない、根拠が必要である。自我、個性、パーソナリティーとは、法則性、規則性、再現性を持った応答でなければならない。ある人が毎回別人の名を語られては、その人を特定できない。人がもし気まぐれで喜怒哀楽を示し、同じ事に出会ったときに毎回違った感情を示されてはお付き合いができない。それは統合失調症などと呼ばれる範疇になる。

人が感情を基に行動し、感情を裏付けるものが”確信”だ。”それはそうでしょ、そうにきまっている、そうでなくてはならない。だって、、、、、”。しかし、感情がどれだけあやふやなものか、我々は知っている。感情的か理論的か、などのように背反する意味に使われる。しかし、感情的な言動に走ったとき、その言動は確信のないあやふやなものとは言わないだろう。主は必ず”間違いのないこと、当たり前だろう”という。だれにとっても全てが”当たり前で確信したこと”である。100人いれば100通りの異なった”間違いない事”がある。誰でもそれを”確信”していて、誰もそれを疑わない。

信頼、会話、仲間意識、好意、そういったものを、”確信する”根拠はどこにもない。消えるときは容易に消えるし、それは信じているときは間違いのないもので、疑った途端にあやふやなものになる。それはいつでもどこでも、瞬時に起こり、立場、見方、足元が全く逆転する。それは、脳がそう思った途端に、起こる。それは集団でなく、個人レベルで起こる。

”確信”は相当容易に”不審”に変わるしその逆もまた可である。神の啓示は瞬時に人を変える;。かわいさ余って憎さ百倍だし、昨日の友は今日の敵、”あれは実はそうだったのか”と突然事柄の意味が変わり、あれだけ熱狂したアイドルが今日はもう消えている、バーゲン会場の展示があまりにも素敵だったのに自宅で明けた袋からはそれが消えているし、それがあればもう何も要らないと何年もかかって手に入れた物は知らぬ間に2番目に欲しかったものになる。

”確信”は、確かでも何でもない。”確信”は、”迷い、惑わし”ともいえる。しかし、ヒトはそれを疑うように造られていない。

確信、を疑う

我々は多くの確信を持つ。物事を”そうだ”と思い、”間違いない”と感じ、”そうに決まっている”と確信する。過去の様々な出来事を思い出し、整理し分類し、理論を組み立てて疑いやあいまいさを一つづつ消していく。足りないところは埋め、疑うところを確認するために裏付け手段を取る。あれこれと詰めていって、そう、それはチェスや将棋と似て、ひとつひとつのコマの位置から、相手の王を追い詰めていく時の”間違いない”実感を得る。

それは、行動に方向を与え、障害を乗り越えて困難な目的を達成させる。揺るがない意思と行動力を産むための手段だ。”そうに決まっている”という結論は、ひとつひとつの小さな”確信”の積み重ねだ。その小さな確信はその人がこれまで生きてきて体験し、教わり、学んだもの。決して憶測や思いつきでなく、確固たる礎の基に築かれたもののはず。

しかし、だ。それは本当だろうか。”確信”というものは、現実に存在するだろうか、という疑いをなぜ人は持たないのだろうか、という論点が主題である。”確信”は、”確信”ではなく、”思い込み”や”思いつき”に過ぎないのではないか。なぜ人は、”間違いない”と思い込むのだろうか。そしてそれを疑わないのだろうか。

恋をする。愛が芽生える。”私はこの人を愛している”。そう言った感情が多くの人に訪れる。幾度も繰り返し。あるときは容易に、またいくつかの困難を経て。”恋” と言った薬物中毒に似た病に冒される。これはまさに解剖学的にもその通りなのだが。”恋”のときに感じる様々な”確信”、-愛し合っている、.永遠に続く、遊びじゃないの、君のために死ねる、あなたの親はわたしの親、母の愛は永遠で無償、子はかけがえのない最高の宝もの、-それは当たり前のことで疑いようもなく、”間違いなく、確信して、そうに決まっていると、声を嗄らして幾度でも叫べる。あったり前でしょ。” ということ。

”確信”は当たり前だから、疑わない。疑うことに対して確信とは言わない。疑うことを経た結果が、”確信”なのだ。疑いようのもない事実をなぜ疑うのか、禅問答みたいだ。

しかし、恋の時のそれらは、”確信”でも、間違いないことでも、当たり前でもない。多くの人は恋が冷めたときにそれを感じる。愛はまやかしと気づき、本当は愛してなかったのだと得心する。命に替えたい子供はとんでもない厄介者だし、差し出す愛情を当たり前のように奪い取っていく。子供が何を言ってもいつでもどこでも何をしても可愛い、などという人は多くはいないだろう。確信はいともたやすく消えるのだ。全然確かではなかったのだ。手の平を裏返すように前言を破棄する。多少残渣をぬぐいきれない人もいるが、恋のほとんどは生物学的な目的達成と共に、DNA指示の基に終息する。しかしそれを確認してもまだ、人はまたそれを繰り返す。”確信への不審”を幾度感じても、”次は間違いない”と言い続ける。なぜ疑わない。

”確信”がほとんどの場合一時的な熱波のような思い込みに過ぎないのに。それを”疑わないシステム”に気づかない”生き物の構造”を基に、社会が成り立っている。

多くの異なった”正しい確信”があつまって、DNAの全体意思を伝えている。それは必ずしも個体の意思とはそぐわない。

2010年7月25日日曜日

コウノトリは選べない

産まれてくる子ども達の何%かは障害を持っている。それは生き物の精密さ、緻密さの裏返しであり、ダイナミックな命の、大きなうねりの中の出来事なのだ。だから、資質や組み合わせ、道徳やあらゆる概念には無関係に、様々な形態の新しい命が誕生する。生きられる者、生きていけない者。かろうじて短い命を持つ物、それらは確率的な分布を持ってコウノトリが運んでくる。誰のせいでもなく、誰のとこへでも、問題を抱えた子供は運ばれる。くじ引きであり、運不運であり、運命であり、全てが授かり物だと言うこと。そして、どんな状況でも、喜怒哀楽は同じように存在する。

だから、誰の物でもなく、誰に押しつける物でもなく、みんなで支えていくべき物だと想う。

社会生活を営み、社会同士が絡み合い、距離を超えて絡み合うとき、子供はやはり個人の持ち物ではないと感じる。次世代という社会を構成する一因であり、前世代を支え、次世代に支えられる。それも流れの一部であり、私もその一部である。誰もが流れの一部を構成しており、隣だろうと離れていようと、無関係ではいられない。

同じように、人は他人の持ち物にこそ、快感が潜んでいると妄想する。自分の喜びの素を他人が持っている、と多くの人が思い込む。そんなことはあり得ないのに。だれも他人を喜ばすことを自分より優先することはない。つまり、自分が嬉しいことならば他人も嬉しいはずだと思い込む。なんの根拠も無しに。根拠を想う事もまずありえない。自分を喜ばすのは自分なのだ。他人が喜ばしてくれるのは共通の目的があるときだけ、たとえばそう、子供を持つとかね。恋は盲目なのだ。

誰も選べない、何も選べない。あなたの道に、喜びが置いてある。

うーん、暑くない、,,

暑さに鈍感である。暑くて困ると言うことはない。まあ、体質だろうと思っていたが、今年の暑さでも夜はクーラー無しで快眠である。自分でもちょっと変かなあと思うこともある。急にクーラーの部屋に入るとくしゃみが止まらない事がある。鼻水が出ることがある。アレルギーかな?車中でも一人だとクーラーは入れないで窓を全開である。自転車で帽子をかぶって走るのは、風が心地良い。確かに36度は暑いけど、イライラするほど暑くはない。夏バテもないし、寝不足もない。神経のどこかが鈍感になっているのだと思う。

とは言いながら、信条として、身体を慣れさせたい、という思いはある。暑ければそれなりに、寒ければそのように身体が慣れていくはずである。適応性、という能力は身につけたいと思っている。それがストレスに対処する方法で、免疫力なども育まれるのではないか、、、と信心している。”自然治癒免疫教” などという教団はない物だろうか。

小中大学生の頃は、クーラーはなかったので、夏は暑い中で授業だった。大学では唯一、コンピュータールームだけがクーラーが入っていた。これには驚いた。暑い暑いと言いながら、誰もが夏を過ごしていた。ヒートアイランドだどーのと言って、昔より暑いはずだと言うけど、1-2度の変化は、何年かのうちの夏にはやはりあって、40度近くもあったことと思う。それでもクーラーなんて水冷クーラーがデパートにあったくらいだ。今の冷房はやはりやりすぎだ。

と言うようなこともあって、冷房はキライだ。冷房は熱交換機だと言うことを多くの人は忘れている。暖房のように沸いて熱が出てくるのではない。こちらの熱をあちらへ移しているだけなのだ、しかも、利子をたっぷり付けて。右側を10度減らしてきて、左へ15度分増やす、と言ったような原理なのだ。熱交換、運動と熱、運動と仕事、すべからく変換効率の低い分余分な熱を発生する。クーラーなんてその典型で、収支をすると冷やす以上の熱が全体では増えているのだ。計算上ではこんなくだらない交換トレードはない。と言う意味から、冷房はキライだ。

一方、水分が蒸発して身体が冷える、というのはとてもスマートな仕組みだ。汗は気持ちが良い。汗は好きだ。汗をかいたあとのそよ風は、とてつもない快感である。そして、汗の臭いも悪くない。

話は変わるが、汗臭い臭いはフェロモンその物なのだ。草食系男女とか、結婚しない人々は香りを排除したためだと、私は強く思うのである。ある由緒ある実験で、女性は排卵期には特に香りに敏感になり、その時に選んだ男性は抗原の型が似ている(健康な子供ができやすい)例がほとんどという報告がある。これは私にとって信じやすい。理にかなっているなあと感心するのです。

2010年3月29日月曜日

おちこむなあ、、、、、

つまらないミスをして、それが重なると、落ち込むなあ。みなさまに余計な迷惑と手間を掛けさせて、時間を無駄にして、あ~~あ。

 

しかし年の功と自分で言うのも何だけど、起きたことは戻せない。教訓だけくみ取ってあとは忘れるしかない。うじうじするより気持ちのベストコンディションに戻す方が大切。だから、時間を区切ってうじうじする。30分落ち込んだら忘れよう!(落ち込み程度で時間や日数が変わる)と決めて、あとは開き直る。守るも責めるも黒金の~~と、責められても戻せない、謝るけど代われない。どーしようもない。あとは気持ちの問題だけ。

 

50余年きたけれど、そんなのの連続だね。だれだってそんなことの繰り返し。他人に迷惑を掛けないようにしよう、って現実的じゃないね。互いに迷惑を被り合ってお互い様だね、補って庇い合ってここまできた感じ。他人の尻をぬぐい合って友達が出来てきた、ってかんじ。

 

落ち込むことはないんだよ、誰だって。良い人や尊敬できる人はみんな大きな迷惑を起こして、また誰かの被害をたくさん被って、それでもつぎつぎと足を踏み出した人ばかり。プロジェクトX っていうNHKの番組があったけど、あれはひどいね。成功物語だけどその一歩手前ではたくさんの人に膨大な迷惑を掛けている。結果オーライって訳だけど、苦笑いは膨大な数の人におよぶだろう。そうでないとヤッタ-!!なんて喜べない。たくさん落ち込んで厚顔無恥でまたやる人だけが満足を得るんだよね。

 

一時期部下を使ったり広いお付き合いもあったけど、踏まれても踏まれても、、、って一番大事だと思う。賢い人もそうでない人も、器用な人もそうでない人も、人気のある人もそうでない人も、みーーんな落ち込むし、本人は真剣で他人からは滑稽で、ここぞとばかり腹いせをするけど、なにはともあれ戻らない。どうしたって時は過ぎる。慣れるし忘れるし、次々と新たな問題は山積するし、、、気がつけば年喰って一息つく。

 

しかし、、、、、落ち込むな、くだらないと思いつつ、、、.

2010年1月22日金曜日

脳は何でも信じる~妄想の共有

私たちは何でも信じる。根拠もなく、裏付けもなく、ひょっとした拍子に信じ込んでしまう。”信じる”と言うことはなんら難しいことではない。脳の中の"信じる”というスイッチが入るだけ。その細胞が神経伝達物質を放出すれば、それが信じること。

人それぞれに勝手にいろんな物を容易に信じる。正義、正論、真実、事実、理論、理屈、こだわり、筋道。信じればそのとおりだし、信じなければ虚空となる。おなじように、貨幣、証券、所有、ブランド、宝飾、逸品、それらも落ち着いて考えれば、信じた時にその価値が存在し、疑った途端それは霞のごとく消え去ってしまう。有る数以上の人々が信じたときに社会通念上に実存する。しかしそれはやはり個人の脳の中に存在する物だ。

個人的な最も端的な例は、恋愛だ。生き物の最も大切なものは生殖、増えることだ。何よりも優先される。自分や誰かの命、輝かしい軌跡や未来の可能性も、何もかもが恋の前にはどうでもいい一抹のチリなのだ。子孫を残すためにそれこそ、思慮分別のない盲目的な行動ができる。愛する人は容易に現れる、客観的に見ればそう。誰もがどこかでも恋を望み、愛を探している。運命の人は容易に初対面で突然、あたかも必然のように現れるし、知らぬ間に霧のように消える。恋に落ちるときも、恋から醒めるときも、何の根拠もなく、事由もなく、前触れや伏線もなく、現れて消える。正に夢のよう。

しかしだ、恋に落ちた者は誰も、その必然や運命を疑わない。確固たる信念と確実性、無限大の確率の母数の上に立って、唯一惹かれ合った奇跡を疑うことは、決してない。その希少な確率はすぐ隣でもあちこち、あらゆるところで起こっている。それは矛盾でなく、不思議でなく、そもそも計算や検証するものではない。つまり、”それほどの奇跡が愛し合う二人の間に起こっている”、と脳がささやけばそれが唯一無二の真実になる。生き物は、なにがあろうと、どんな理由でも、どんな感情であるかはどうでも良いこと、元気な子孫こそ、DNAに書き込まれた指令なのだ。

社会では、宗教、神話、聖書、UFO、それから、文化や文学、宇宙や世界観、物理や化学、進化や人種、あれこれ全ての物が、全ての人が根拠を持ってい確信しているわけではない。根拠そのものも妄想に過ぎない。脳の創造物、想像の世界だ。地球は丸い、と多くの人が訴えれば、少数の人はそれを信じないと社会で暮らして行かれない。”信じるスイッチ”はその時入る。天地創造の世界、誰かがそれを唱えて、多くの人がそれに賛同する。その時それは真実で、揺るぎのない事実となる。神も天地創造、聖書の世界が基盤となって社会が成立する。同じように、冒険、進歩、意欲、成功、成果、目的、なぜそれが必要で、それが大切だと思うのか。それも、”大切のスイッチ”が入っているからに違いない。”そうでなければならないスイッチが入る” から、それが大切で、生きる目的で、正義や正論が生まれる。信じる者には確固たる根拠や確信があり、信じない者には全てがまやかしだ。そして、それは疑わないように仕組み作られている、システムは自らに疑いをもたない、システムは決して立ち止まらないものだ。動いていてこそシステムで、停止は終了になる。システムは次々と処理を続けていかなければならない。

2010年1月2日土曜日

ヒトは何でも、簡易にじる。

脳の中に、”信じた”、というスイッチがあるらしい。いろいろなタイミングで、ヒトは何でも信じる。地動説や天動説、進化論や天地創造、人種偏見と純血主義、天文、地学、遺伝子、素粒子、運命の出会いと離婚率の高さ。

生き物の進化速度から見れば、ヒトは何万年も変わっていない。だから、上記のことは何万年も全てのヒトに繰り返されてきたありきたりの出来事だ。信じたり疑ったりには、何の根拠も要らない。裏付けも研究も経験も膨大なデータも、何の関連が無くても、信じるときには根拠ができる。だれもが確固たる根拠の元に、あらゆる事を信じる。あるヒトは右が真実で、隣のヒトには左が真実なのだ。互いに説明は出来ないけれど、互いに譲ることのない信念を持つ。

信じたり、こだわったり、信条にしたり、それはそれ以外の者ではダメなのだ。絶対的な信条がある。しかし、別の人間には何の意味も無い。全ての正義と真実は、その人だけに有効な、個人の物だ。その人以外の誰にも意味が無く、信じられず、どうでもいいことなのだ。

”それが真実だ”、のスイッチは容易に入る。”運命の人に出会った”、スイッチと同じだ。そして、ヒトの数だけ世界が出来上がる。だれもが、自分以外の世界の侵略に備えて、争いが日常に起こる。