2009年1月26日月曜日

重要な課題は、環境問題でなく、人口問題

人口問題こそ、全てにおいて優先される課題である。環境問題も、生物多様性も、戦争も貧困も、ヒトに偏った数の増加がその一因となっている。人口問題が解決されれば、すなわち資源が充分な量隅々に配分されれば、(ヒト以外の生物にも)多くの問題は解決する。

他の生物を見ると、総量においておおよそ均衡が取れている。増えたり減ったりする要因はあるが、増加もしくは減少の一途は、異常事態である。レミングというネズミがいる。集団自殺をするという。かれらは個体数が増し、密度が増えるとホルモン分泌の活発な個体が産まれるようになる。神経質な個体が増えてくる。イライラし、ヒステリックになる。その数がある割合に達すると、カタストロフィーがはじまる。興奮し、熱狂的になったネズミは、海めがけて更新を始める。その先を読むこともなく、脇目もふらず、まさしく狂ったように移動を始める。まるでそれが有意であり、英雄的であり、名誉と誇りをもった行動と言わんばかりに、迷いもなく突き進んでいく。

そして、廻りの空気が読めない、気が効かない、落ちこぼれが少数、そこに取り残される。死に損なった特攻隊のように。そして彼らは、種の存続を担って再び数を増して新しい時代を築いていく。

人口が増せば、領土が必要、食料が必要、エネルギーが必要、そして過密化と文化交流は様々な格差と競争を産む。競争は搾取と奴隷を産む。子孫は、環境の善し悪しや文明の未来、エネルギーの有無や生存条件の可否にかかわらず、生まれてくる。子を産むことは生き物にとって至上命令なのだ。生きていくかどうかは構わない。ただただ、自分の子を産み残すことが何にも増して最優先になる。そう言った因子だけが受け継がれる。子供はどんどん増える。それでも、人口を減らすか、一人当たりのエネルギーを減らすか。用意されている資源総量は一定なのだ。

経営理論に寄れば、最も収率の悪い部分から、もっともコストの高い部分から、もっとも大食いの部分から切り捨てられるべきである。

さて、、。

生物の多様性、絶滅種保護のこと

絶滅種保護、生物多様性の確保は、意味がないと考える。それは実現できないと思う。以下は、私の偏見である。

多様性;私の定義では、10あれば、お気に入りが2,無害が3,有害が5。 これが多様性である。好まざる物の存在を認めること、これが多様性の容認である。しかし、文明の進歩、豊かさの進展は、好まざる物を排除することで獲得してきた。それが連鎖のどこかで必要になるかどうかなど、誰も意識することもない。クモ、蟻、蜂、みみず、みんな遠ざけてきた。だから、どこか遠くで多様性を守って欲しい。しかし、自分たちの生活の近場はイヤだ。それは、都会は便利で人工的で埃もゴミも無いところにしておいて、気が向いたときに里山へ行きたいから、我慢できる短時間だけ里山は必要だ、と言う理屈と同じ。豊かな生活のためにゴミをどんどん掃き出すシステムが欠かせないのに、掃き出したゴミはどこか目の届かないところへやってほしい。そのための費用のほうが、里山に投じる費用より大切なのだ。そう言った人たちが、多様性と、絶滅種の保護を求めても、その目に何が映っているのか疑わしい。

生物は多様な種が、多様な環境下で、多様な形態を作っている。それはどうあるべきとか、条件を規定する物でもない。形が無くなんとでもなる不定自由な物なのだ。環境が変われば、生態系はそれに準じて姿形を変えていく。何かの種が消えれば、別の種がそれを補う。いつも地球はなんらかの生き物、DNAで満ちあふれている。それは誰かが好き嫌いを言う事柄ではない。憂うべきはわれわれの種の未来であって、他の種のことではない。誰かを守るほど、人は強くないし、他のどんな種より愚かだ。自分の首を絞めているのだから。

2009年1月22日木曜日

内臓が産み出す心  西原克成

と言う本を読んでいる。これは、私にはしっくり来るテーマである。心はどこにあるか。心は脳にあるか、それとも心臓にあるか。心は脳、大脳皮質にある、と言う定義は、心は人間だけの物である→大脳皮質は人間だけの物である→だから心は人間の大脳皮質にしかない。 という図式が見える。心は高等生物だけの物だろうか。

心は内臓にあり、という発言は、心は全ての生き物にある、それは全ての生き物に内臓はあるからだ、という図式になる。全ての生き物に、消化器と生殖器はあるのだ。

そのまえに、心とは何か、という定義がいる。私は2つに分けたい。一つは行動方向を決めること、もう一つは現実のイメージを作ること。

心の基本的な役割は、外の情報を取り込み、行動を出力すること。人の行動、仕草、慣習から見た心による作用は、犬や猫、トカゲや蛇と何ら変わりはないと思われる。人が大気圏外へロケットを打ち上げて喜んでいるのと、蜂が精巧な巣を造り上げるのとどう違うのだろう。核融合技術と、小さなアリが人の背以上のアリ塚を造り上げることとの違いはあるだろうか。その種にとって喜びでも他の種にとっては関心外、と言う点で同じ土俵に上げられる。私たちの言う、”趣味の違い”、そのものである。どちらもどこからか沸き上がる衝動に操られているに過ぎない。犬や猫、たこやイカに心などあるはずがない、と言う人々は、ほんの百数十年前まで、肌の色が違うだけの同じ種を、別種と信じて獣扱いし、彼らに心の存在など否定していたのだ。

脳が無くても心があるならば、心は脳以外の場所にある。脳は、中継所、データベース、ただの信号の集中整理場所にすぎないと思う。機械で言うIO(アイオー:InputOutput 入出力機構)。皮質はふくれあがる妄想を納める巨大なハードディスクに過ぎないのではないか。

心肺同時移植、という医術がある。心臓、肺、胸腺、は、発生源が同じなので同時移植は成功率が高いという。そして、移植をした者には臓器の持ち主の記憶が移ってくると言う。これを不思議とするか、事象とするかは、皮質の好き嫌いによる。

著者の言うように、食料を得ること、子供を残すこと、これが生命の行動目的ならその欲求の源は消化器であり、生殖器である。後者に対しては誰もが実感しているはずだ。

心とは、何かを成し遂げたいという欲求をかなえるための意志。欲求という命令を出している者の正体は何なのだろう。

2009年1月7日水曜日

独り言、プレカット勤務の頃

あるプレカット工場の創世記を一緒にすごした仲間が、亡くなった。くも膜下出血だから、予防も前触れもない。交通事故みたいな物だ、と医者は言った。

初めの頃。”プレカット工場を始めるのだけれども、やってみないか。” 昔の上司に久しぶりに声を掛けられた。木材業界では最先端のCAD/CAMを駆使した部材加工で、話しには聞いていたし、工場見学にも行っていた。設備装置やコンピューターには関心があった、しかし、建築は全く知らなかった、木材を扱ってたのにね。

”プレカット工場はたくさんできたし、飽和状態でうまく行かないからやめなさい。” 会う人誰もに言われた。だから、初期のメンバーは親会社の出向扱いだった。”わるいくじを引いたね、かわいそうに”。 プレカット担当になった人は皆から同情されていた。そのわけは、今でも私は判らない。だって、顧客業者にアンケートをしたら要望が多かったので踏み切った、と聞いていたからだ。

プレカット工場には、入力作業、部材を扱う工場作業、それをサポートする大工が必要だった。プレカットとは大工の仕事をするのだ。大工が家を建てるときの”構造部材の刻み”を機械が代わって行う。木造建築の組み方法は、立体パズルのごとく、木を凹凸に削ってはめ合わせるのだ。間取り図面をコンピューターに入れて、はめ合わせは機械が当てはめる。しかし、構造体や部材の割り振り、配置は人が決める。建築を判っている人が決めていく。それは、設計士であり、あるいは大工のことなのだ。

プレカット工場を始めるに当たり、大工を募集した。先輩曰く、”大工が多いと振り回されて仕事にならないから一人で良いよ”。プレカットは大工仕事を機械にさせるときに、かなり仕事を間引いているのだ。代わりにしっかりと強度試験データを握っている。それが効率化、無駄を省き、スピードアップの方法なのだ。大工のように、”見せるほどの技”は持っていないのだ。

募集した大工(A)さんが来た。しかし、年齢なのか途中で気が変わったらしく、取り消すと言ってきた。そして彼(B)が来た。陽気でおおざっぱな彼は精力的にあれこれと指示し、みんなを引っ張ってプレカットの準備を始めた。彼以外、プレカットの何たらを知る人はいなかったのだ。その後Aさんも結局仕事がしたくてプレカットに入ってきた。2人の大工さんは、よく仕事をしてくれた。職人さんだから終わるまでやめれない、ことを判っていてくれた。

”新しいプレカット工場なんて長いこと保たないよ、仕事もないし、工場は多いし、すぐにつぶれるよ、” と言われながらプレカットは稼働開始した。”いつまで保つかわからない”、 というつもりだったから、やれるところまでやる。もし、うまく行かなくなったときにでも、”あれ以上は仕方がないよね”、と言われるくらいやりたかった。背水の陣はちょっとオーバーかな。わたしもサラリーマンから遠かったので、仕事がはあるうちはやる、終わるまでやって無くなったら休む。大工さん2人はとても良く動いてしてくれて、1日何時間でも文句なく、仕事をこなしてくれた。大変なときも余裕があるかのように、慌ただしく時間が過ぎていった。気の済むまで仕事が出来て、それは、この先輩達に負うところが大きい。

”素人が始めた大工仕事”、で、ミスが多く、営業や取り巻きを初めみんなに多大な迷惑を掛けた。しかし、叱られてもどこがどう違っていて、何を怒られているのか判らない状態なのだ。仕事を誤った現場へ行ってリカバーするのが、その彼と私の仕事だった。昼は工場で、夜は現場へ材を持って、鋸とノミをもって出掛けた。夜の7,8時から出掛けて、11,12時に帰ってきた。連日そんなんだった。営業のご苦労で悪評判の割には毎月仕事は増えた。

モチベーションを上げていたい、これは私の望みであり、信念。自分のモチベーションは別として。愚痴や文句の少ない人は本当に心強くありがたいものだ。”励まし上手になりたい”、いつごろからか、そう思っている。私の愚痴や泣き言を聞いてくれた一部の人、とても感謝している。たくさん走った頃。長くて短い1日の頃。いつまで続くのだろうと言いながら、もう10年を過ぎてしまった。

背伸びをしなければ人生は楽しいけど、、

ありのままで、自分の良いように、素直にくらせればそれは、申し分のないことだけど、褒められたい、好かれたい、人気者になりたい、羨望でみられたい、可愛いと言われたい、きれいと言われたい、、、、、尊敬されたい、頼りにされたい、、、。

そう言った背伸びは結局、自分を苦しめるだけなのだ。だって、それは事実じゃない。みっともなくて、頼りなくて、不器用不格好で、不細工で無造作で、勝手でわがままで、抜けていて呆けていて、、、、それを受け入れられたら、それは楽しく幸せな気分になれると思う。それはつまり、人の目を気にしなければ、と言うことだ。人の目、批評批判という妖怪、魑魅魍魎に誰もがつきまとわれている。

好かれたい褒められたい、、、それは現実的な願いなのだろうか、、、。決してかなわぬ事で諦めるべきではないだろうか。振り切れば、バラ色の人生が広がるかも知れない。

だから、山奥や、田舎暮らしや、一人暮らし、ひいては、ホームレスに向けられる羨望になるのではないのか。

オレは、しょうがない奴だよ。あほで結構、何とでも言ってくれ。無視されても、けなされても、事実なら受け入れて、それが分別という物だろう。

ただし、この心という厄介者がさわがなければ。情動という物は、やっかいな物で、理屈も無しに騒ぎまくりひとしきり暴れないと収まってくれない。感情、エモーション、喜怒哀楽、これがある限り、平穏などとは望めないのだろうか。