2009年3月12日木曜日

鬱と自殺の考察

ちょっと鬱。

憂鬱になる、死にたくなる、何もかもイヤになる、楽しいことなど何もない、エトセトラ。範疇に依らず、自分にまつわるあれこれは全て、自分の中に産まれる。始まり、きっかけ、原因、信号、刺激、トリガー、ハンドル、イベント、(この辺りはコンピューターの言葉)は、外部からの出来事にちがいない。人間関係であったり、生活であったり、仕事、友人、病、などなど、さまざまな気がかりが絶え間なく沸いてくる。しかし、おおよそ、考えても仕方のないこと。なるようにしかならないし、できることしかできない。突飛もない要望や願望を想っても、憂うだけのこと。

 

困ったのは、自分の内側なのだ。”イヤな気分” はどこから沸いてくるのだろうと考える。イヤだろうと何だろうとそんなことは構わない。なるようになれ、と理解していても、頭のどこかから、“イヤな気分”が沸いてくる。それはちょうど、イヤな奴につきまとわれてさんざん貶められているような物だ。あっちへ行ってもこっちへ行っても、耳元で、”イヤな気分だろう、憂鬱だろう、生きていてもしょうがないだろう”と、絶え間なくささやかれているようだ。自分が自分に向かってそんな言葉を言う。これはどういう訳だ。自分は自分の味方のはずだ。自分を守ってこそ、自分だろう。自分と自分は運命共同体、一蓮托生なのだ。(これは訳のわからない言い方だ。)つまりだ、自分の中の言葉が、自分を攻めている。それは、自爆行為だろう。

 

”自爆行為” といえば、アポトーシス、という言葉が浮かぶ。生物学用語で、不要な細胞が増殖をやめて死んでいく現象を言う。この自滅の制御が効か無くなった物が、”がん細胞”らしい。つまり生き物の形は、増えるべき部分と消えるべき部分のバランスで成り立っている、と言うこと。そこで、消えるべき部分の細胞内では、ひょっとすると、想像力豊かに想うに、鬱な状態を経て自滅するのではないか、などと想うわけである。なにも、全ての細胞、全ての生き物、すべてDNAが、”死にたくない”わけではないのだ。生は死に支えられている、食物連鎖はこれである。

 

そこから、社会の構築、集団の効率や目的には、それに適った構成員が必要で、それを妨げる物は不要となる。不要な物は排除する、これは自然なこと。つまり、鬱になって、アレもイヤ、これもイヤ、何もかもイヤ、と言う状況はある目的集団の効率化を目指した正常な排他処理ではないか、私の脳はそれを知っている、と言うことになる。うーん、抵抗したい。

 

まあともかく、”イヤな気分”に振り回されるのはまっぴらだ。線が見つかるならば切っちまいたい。不通にするのだ。”それがどうしたの?”と言えるのが、健全なのだろう、と思う。それは訓練だろうか、経験だろうか。一人くらいそんなのが片隅にいたって誰も困らないだろうと想う。そう、誰も困らないのだ。結局、誰の迷惑でもないし、誰も困らない。例え誰かが困ったって、この前述のようにそれはその人内部の問題なのだ。悩む人はみんな”困った”の回路を切っちまえばいい。誰も困らない。誰もが自分は困るけど、他人の困り事には感心はない。

さわごうと、わめこうと、時間は過ぎて、何もかも淡く、薄くなっていく。どんなふうにだって、けっきょく過ぎていくんだよな。