2009年8月29日土曜日

我慢しなくてもよい、、、っていつから?

いつからか、我慢することは美徳ではなくなった。夢を形に。やりたいことをやり、欲しいものを得る。それをぜったいにあきらめない。あきらめないことは美徳。いつから?

限りなく突き進む欲望を、絶体にあきらめないで、赴くままに成し遂げる。そしてまた次の目標へ向かう。それを美徳にしたのはなぜ?それが受け入れられる、喜んで受け入れられるのはどうして?それこそは、私たちに科せられたDNAの使命なのだ。種を超えた、生態系の歩くべき道程なのだろう。

 

マラソンの後は、たった1杯の水は、何にも増して私たちを幸せにさせる。高級料亭の希少な食材は、塩加減一つで大きなストレスをかもし出す。私はクーラーが嫌いで、夏の汗は大好きだ。汗でぐずぐずになったシャツを揺らす風は、何よりも涼しい。どんなに暑い真夏の夜でも、かすかな空気の揺らぎが、この上ない快感を運ぶ。それに誘われて安らかに眠るために、昼間は一切クーラーを付けないし夏バテもない。つまり、自分に何を教えるか、だ。

 

食べられるだけで我慢し、要る分だけで我慢し、夢はそこそこに、想像と現実とを切り離し、犠牲を受け入れ、子供や親族の何割かの短命を受け入れれば、循環社会の仲間入りが、たぶんできる。どこかの国のお祭りや、さばけなくなったブランドのバブルイメージを見られなければ、仮想現実の脚本化された快楽におぼれなければ、たぶん、他の生き物との系に入ることができ、次世代進化の中に残ることができるのだろう。

うるさい脳のわずらわしさったら、、

結局私たちは、脳が気まぐれに(そうじゃないとはおもうけど)次々と、繰り出してくる欲に応えて行かなくてはならない。脳の命令に従えば快、従わなければイライラなのだ。

テレビに映るステキな車。なぜかアレが欲しい、と脳がかってに決める。”格好いいじゃん、アレでなくっちゃ。色も良いし、センスも良い。何てったって性能がいちばん。エンジン出力も抜群で、アレをどうしても手に入れないと。” 脳は、様々な妄想と快感の期待を次々とイメージに送り込んでくる。アレが全て。あれがあれば恋人も手に入り、仕事もうまく行き、不満が全て消え、世界をバラ色に見せてくれる、誰がってあなたの脳がそうしてくれる。だからあの車を手に入れろ。

そのつぎに、アレが手に入らないイライラと、もし手に入れなければ”絶望”を与えると脅してくる。アレが手に入らないと、あなたは無能だ、甲斐性がない、目標も達成できないし、行動力もない。約束も守れなく、将来性もなく、生きている価値がない。恋人はできなくあなたは一生不幸なまますごすことだろう、と、あなたの脳はあなたに語り続ける。それは、車でなくスーツかも知れない。指輪、ブランドバック、それとも会社での地位、給与、栄光と冒険、開発と発見、次から次へと、欲とイライラを投げかけてくる。それは、次々と、限りなく、報酬もなく。

もし、あきらめたら。我慢して、達成できなくてもそれでよいと言ったら。たぶん絶望は訪れなくて、ストレスは消えるだろう。欲は達成するためにストレスを与えるのだ。欲がなければ、ストレスは消える。そうでなくてはならない、事が無くなるのだ。まずい物を食べていれば、おいしい物を食べられないストレスはなくなる。不格好で満足すれば、人の目を気にしなくても良くなる。誰の悪口も非難も、軽蔑も意味をなさなくなる。欲とストレスはワンセットなのだ。

”精神”という ”観察映画” を見た。「おまえなんかいなくても良い、消えてしまえ、死んでしまえ」という声が聞こえると患者は相談に来る。だったらそれは、自分のことではない、と思えばいいのだ。あんたの前でなくても生きて行かれるし、うっとうしがられてもそれも構わない。みっともなくて結構だし、いやがられも構わない。

自分が生きていければいいのだ。あなたが、あなたの脳のつぶやきを無視することができたら、平穏な日々が訪れるだろう。何のために脳は、どうでも良い欲望を、次々と無尽蔵に突きつけてくるのだろう。本当にどうでも良いこと。あふれるほどの衣服も、希少な高級料理も、デザインだけの造形も、新しい恋人も、無くても生きて行かれる。無ければストレスも、絶望もない。それが無くても暮らしている人はいくらでもいるのだ。何千年も前から、人は変わっていない。進化はそんな早くないのだ。生きていくために必要な物と、そうでないモノを見分けないといけない。そうしないと、あなたはあなたの脳に抹殺される。

 

欲望は絶望と天秤に載せられているのだ。

2009年8月25日火曜日

麻薬のこと、誰もが同じような、、、

麻薬が人体でどう作用しているかは、だいたい解明されているようだ。モルヒネはその組成が、脳内で分泌される満足を感じるタンパク質(ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなどの名称)ににており、快楽神経に興奮をもたらすという。脳内であればこれらのタンパク質は制御された範囲内で適量分泌され、事後は速やかに分解される。外部から投与されたモノの害は、制御がされてないことに寄る。つまり、刺激の量も、時間も、刺激する場所も適当でいい加減なので、リズムが狂ってしまう。快楽は記憶され更に上を求める。まるで科学の進歩、文明のよう。

 

薬物依存症、といえば縁のない者には想像が難しいようにおもうが、ちょっと考えてみればそれは、われわれの日常と同じではないのか。われわれの欲望、生きること、愛すること、希望と達成と、共有感と感動、それらをいつも夢見て、それらに渇望して人は日々を過ごしている。それは適度に制御され、必要な時とそうでない時とにわけられ、無駄な争いを避け、トータルでの総合利益が計られるように仕組まれている。

 

もしこの制御が無くなったら。実験動物のごとく、身近なスイッチを入れたときにいつでも、愛されているという満足感が得られる、全ての人があなたに羨望する、至極の食が味わえる、仲間との一体感が延々と続く、「愛している離さないよ」とずーっとずっと言い続けられる関係、明日への尽きることのない生きる希望、長年の努力が次々と尽きることなく報われる、永遠の拍手と喝采の中にあなたは立っている。

そんな手元のスイッチを、意識は制御できるだろうか。感情に対抗できる意思などと言う物は存在するのだろうか。あるとしたら、それは生き物を否定するものだろう。つまり、大切なのは”系(システム)” であり、個ではないのだ。

 

”HOME" というドキュメンタリー映画を見た。増える人口。とどまるところを知らない占領と採取と搾取。先が見えていてもなお、絶滅へ向かう種。そう言った行動にブレーキを掛けていては、生態系は守れない。無き水を求めて掘る井戸、干ばつの横で噴水を飛ばすギャンブラー、餓えても餓えても生まれる子供、食べても食べても廃棄される糖と蛋白。

 

無くなるまでやめられない、破滅するまで終わらない。

 

いちど ”我慢” という制御を外したら、個の自滅こそ全体を守る術である。(うーん、座布団1枚!)

2009年8月6日木曜日

なぜ脳は、自分を攻撃するのか?

世界がイヤになり、絶望し、生きている望みがなくなる。すべてが敵になり、だれもが自分を非難し、蔑んで、ろくでなしと思っている。

そう思うのは誰のせいだろうか?別れ話をした恋人?イヤな上司?いじめっ子の先輩か、苦情ばかりの客。永遠に終わらない業務なのか、取り戻せない若さなのか。ちょっとまて。あなたに絶望を感じさせるのは、だれでもなく、あなた自身だと思わないか?"絶望"を語りかけているのは、紛れもないあなたの脳だ。思い当たる節はないだろうか。

あなたに恋人が居て、デートの日が迫っていればおそらく、どんな目にあっても絶望しないだろう。不治の病が誤診だと判ったら、客の苦情も上司のイジメも苦にならないだろう。

脳は、外界の情報を取捨選択している。聴くべき物、聴かない物、見える物、見たくない物。それらは何らかの基準で選択され、意識に伝えられる。雑踏のざわめきの中で、あなたは恋人の呼ぶ声を識別するだろうし、誰か他人のうわさ話の中で、恋人の名前が言われた途端、その声が聞こえるようになる。ネオンサインの渦の中で信号が見つけられるし、星空に星座を結ぶことも出来る。

もっと物理的には、単純な構造の目が、広い世界をぶれもなく、ズレもなく、全ての部分で焦点があった世界を見せてくれる。カメラや顕微鏡を覗けばそんなことがあり得ないことが判る。

何を聞き、何を見て、何を無視して、聞こえなくするかは、脳が決めている。通勤電車の中で全ての人の会話を聞いていることはなく、うるさくても読書の邪魔にはならない。

その脳が、あなたがイライラする話し、絶望する話題だけをなぜ意識に知らせるのだろう。ネットのつまらない書き込みは見なければいい。その書き込みは自分に関係ないんだと思えば、言葉は意味のない抽象画と同じだ。容易に無視して、楽しいことだけを意識に知らせれば、いつだって明るい希望を持ってあなたは人生を過ごせる。脳が自らの肉体を守りたい、と思っているとしたら、出来ることはある。絶望などは意識に上がらなくすればいい。イヤなことは他人事にすればいい。脳は勝手に希望的な物ばかりを意識に映せばいい。それは建設的で、人類の繁栄にもっと貢献することだろう。明るい未来は、気がつけばそこにある。

しかし、脳はそれを見せない。悪口はよく聞こえるし、自分の欠点はかなり大きい。どう見たって最悪にはほど遠いのに、絶望は容易に人を襲う。絶望は人の前途を絶ち、誰かを殺め、自らの命を奪う。それはよくあること。ふしぎとよくあること。

誰のせいでもなく、脳は自らを絶望に誘う。なぜだろう。本能の中で、自分が生き延びることは、優先順位ではない、ということだろうか。誰かのために犠牲になること、社会を成立させるためには、大切なことかも知れない。

争いも、逃避も、同じように自己を破滅させる。協調のストレスも、仲間はずれの寂しさも、自己を破滅させる。社会を営む生き物が社会をなすために仕組まれた、巧妙な理にかなった機能なのだろうか。

2009年7月30日木曜日

感情はコントロールできるか?

答えは出来ない。感情が人をコントロールしているから。感情は本能の事。生き物に仕組まれた行動形態。感情は生き物の基本的な動機を現し、それに沿って行動し、争い、逃避、防衛する。

 

私たちが冷静に判断し、意識して行動するとき、それはおおよそどうでもいいことなのだ。どちらへ転んでも、どれが真実で嘘であろうと社会での可否には意味があるとしても、生態系から見たヒトにはおそらくどうでもいいことだろう。仕事、プロジェクト、研究、学習、冒険、探求、財産、御殿、膨大な宇宙の果ても、深海の底にある物も、人の仕組みや遺伝子、陽子、中性子もヒトの、脳が産んだ種固有の概念、幻想にすぎない。どれが真実だろうと嘘だろうと、信じるも信じまいも生態系の未来にはなんら影響はない。

 

私たちにとって大切なのは、争いであり、恋愛であり、憎しみであり、暴力である。それはつまり、制しようとしても制しきれないところにある。自分のコントロールの外に位置する物だから、誰も止められない。それほど重要な物、最優先事項なのだ。つまり家族を守り、子孫の住処を確保し、お気に入りの配偶者を容易に奪われてはならない。そのために、律しきれない愛憎と、暴力と絶望がヒトに備わっている。それはヒトの仕組み、いや、地球上の生き物の仕組みだ。そのなかでヒトは生きている。

2009年7月11日土曜日

絶望する脳の仕組み。

人を絶望させ、鬱に追い込み、誰かを攻撃し、自らを破滅させる。その仕組みは全て脳にある。または、遺伝子に組み込まれている。

様々なストレスや、外部刺激が人々を襲う。あちこちに気を取られて、どれも無視することが出来ない。イライラし、困惑し、嘆き、あれこれと攻撃手段を考える。そのような仕組みが、ヒトの構造に組み込まれている。

ストレスや困惑を無視することは、手順からすると簡単だ。われわれは何かに夢中になっているときに、それ以外のことは聞こえないし、気にならない。大事な人が病気や怪我をしたとき、つまらない中傷や勝手な言い分は問題とならないだろう。会社での責任問題や、やり残した仕事、苦情の多くも立場が変わればどうでも良くなる。ちょっとした気分の切り替えで、重大問題は容易に、どうでもいいことに変わる。それは、脳の中のちょっとした仕組み思い込みだけのことなのだ。

自分を追い込むのは自分だ。責めるのも、悩ませるのも、攻撃に走らし、誰かを殺めるのも、全て自分の中の脳が命ずる出来事だ。誰もあなたに鬱や困惑を命令し、その通りに行わせることは出来ない。そして、なんの意図もない小さな一言が、あなたの狂気を掘り起こす。誰がどういった意図や理由でそれを起こしたか、というのは何ら問題を含まず、それをどう受け取るか、そこからどう言った狂気を組み建てるかは、あなたの中での出来事なのだ。

 

生き物は本当に自己防衛本能を持っているのだろうか。自分を大事にし、自分の命を大切に守ろうとするのだろうか?もしそのチカラがあるのなら、つまらない中傷や命令、悩みや妄想を断ち切ればいい。不要なことは聴かなければいいし、つまらない物は見なければいい。そのコントロールを脳は可能である。なのに、である。

脳疾患の症状の1つに、不安とイライラを一切なくしてしまう病がある。未来の不安が一切無く、備えも貯えも思わない。誰もが友好的で、自分の友達。だれからの悪意も感じない。”事故の前よりずっと幸せです。不安が全然無いんですもの”と彼女は言う。生き物が自らを守り仲良くやっていく意図があれば、その仕組みはすでに準備されている。しかし、実際はそうではない。ヒトは疑心暗鬼で、誰もが自分を狙っていて、出し抜こうとしている、と思う。油断大敵、足下をすくわれないかと恐々としている。脳はそれをさらに大きくかき立てる。気をつけろ、気をつけろ、狙われている、、。

そうした脳の仕組みは全く好戦的だ。さらに敗北感は自らの命を容易に脅かす。命の継続に危険な、困惑、鬱、イライラ、絶望を接ぐ次と沸き立てる。自分に対して、“死ね”と叫ぶのは、だれでもない、自分の脳なのだ。その仕組みは当たり前のように健全に機能している。”正常な”人々の誰の中にもある。そしてそれをやっかいとか不審に思わない。自分を殺める危険な物を自分の中に持っている。

生き物はいつでも自分を殺す、というか、死を避けない。死を回避しない、というルールがあるように思う。永久の命はエコロジーの崩壊だし、糧は限られていて、それは命以外にあり得ない。だから集団の中で、処分される機構が必要なのだ、と考えるとこれは理にかなっている。集団こそ優先であり、集団を脅かす個体は抹殺されるべきで、そう言った仕組みが用意されている事は理にかなっている。

2009年7月2日木曜日

人生の長い時間、欲の言うことを聴かなくちゃならない。

欲には切りがない。欲が満たされるまで休まることはない。満たされない欲はストレスで、欲を満たすために行動する。欲には切りがないから、満たされることにも切りがない。

 

発見欲、開発欲、存在欲、意義欲、羨望欲、進歩欲、、、、行動の動機は全て欲。そしてそれを創り出しているのは、脳であり、細胞であり、DNAであり、そして”生命の定義”その物だ。動くために、見るために、聴くために、触れるために、想うために、そこに欲が無くてはならない。おそらく、満たされようと不満だろうと、そんなことはどうでもいいのだろう。動き回り、触れ回り、見て、聴いて、その先と明日を想うことが生きていくための大切な情報であり、目的なのだろう。

 

より長い時間、より多く、より多様性に富んだDNAをばらまくこと、時間を稼ぐことこそが生きる目的で、その呪縛から生き物は逃れることが出来ない。絶え間なく、尽きることなくわき出してくる、したいこと、欲しいもの、見たい物、聴きたいこと。この脳の中で傍若無人にばらまかれる欲を、死ぬまでなだめてすかせて、満足を与え続けていかなければならない。果てしないことが判っていても、留める事は出来ない。それは麻薬に似て、誰の頭の中にもある。

2009年6月5日金曜日

見られたい、思われたい、関心を引きたい、、

という仕組み。思い込み。キレイに見られたい。良く思われたい。注目して欲しい。そのためのきれいな衣服、宝飾、化粧にスタイル。行動、言動、、、、、、。

それは脳の仕組み。脳に仕組まれた機能。だから、その根拠はない。我慢ならないほど大切で、重要で、そのために自分を害したり、相手を損ねたりするほどのパワーを動かすが、その根拠はあまりに乏しい。そうでなくては成らない理由は見つからない。そうではなくて、その訳を探るようには仕組まれていない。誰もそれに疑問は持たない。それを解消することがなによりも最優先で、行動へとかき立てられる。

相手を非難し、攻撃し、ときにその思想を抹殺しようとまでする。自分の存在や未来へ、回避できない衝突を産むのだが、じっくりと考えるとその根拠が何もない。

 

他人がどう思おうとも、どう捕らえられようとも、相手にとって自分がどんな姿形だろうと、構わなければそれですんでいく。実際、大きな災害やアクシデント、いろいろな気になる問題よりも優先的な物事が起きれば、上記のそう言ったことがらは一切価値を失う。つまり、脳の中の優先順位により大切になったりどうでも良くなったり、それはあまりにもあいまいなのだ。

あいまいなのに、それを許せない、我慢できない、やり込めたい、見過ごせない。どうにもならないイライラと攻撃性がその人を包む。何でもいいから理由を見つけては誰かを攻撃したい、そんな生き物の仕組みが見られる。ただその仕組みに操られている。

2009年6月3日水曜日

技術も科学も芸術も、、、欲という括り

覚醒剤は常習性があり、麻薬ほしさに何でもやると言う。その原理は、ドーパミン、セロトニン、といった脳内の満足感充足物質の存在という。過程はどうあれ、"満足"をめざして、生き物は行動をする。付け加えれば、”不快”を回避しながら。

 

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高度の技術や発見も、発明や文明も、さて、それが何なんだ、と問い始めると答えが見つからない。それが無いと暮らせないか?というとそうではない。何万年も前からヒトは生き、生活し、増えているのだ。

文明や技術の必要性を何の尺度で測ろうか? 幸福度? 幸福度、幸福感をどんな尺度で測ろうか。例えばモンゴルの遊牧民と東京の都民。”あなたは今幸せですか? モンゴルのヒトと比べて幸せ度はどうですか?” と聞こうか。 技術や文明に相関して不満は減っているだろうか。エネルギー消費に比例して幸せ感は増えているだろうか?

 

技術の進歩は誰に貢献しているだろうか。牛や馬?猿や鹿?イヌワシ、フクロウ、ワニ、カブトムシかテントウムシ? 欄の花、ひまわり、さくら? それらはヒトの技術進歩に感謝すべきだろうか。

宇宙の開拓、深海探検、素粒子の探求、感染症の撲滅、難病の治療、それらは人々の不満を軽減し、満足度を増しているだろうか。

 

しかし、つまるところ、”何かをしていないと満足できない仕組み”が、食欲や性欲と同様にわれわれを振り回しているだけではないのか。知的でも霊長類的でもなく、本能に仕組まれ遺伝的に設計された行動にすぎないのでは。発見や進歩、成功や到達は満足感というトリガを引くだけの物。エゴや物欲と同じく、脳がのべつ幕無しに訴える不満を、如何に回避しようかと生き物は必死になっている。新しくも斬新でも進歩的でもない。生き物に仕組まれた動機の支配からは免れない。

2009年5月26日火曜日

色の三原色、光の三原色のこと

色、光の三原色は、3つの色の組み合わせで全ての色が現せる、と言う法則。

 

”色”をwkipwdia でみると、こんな記述がある。”光そのものに色という性質はなく、光を受けた器官が色を作っている。” 私たちが学んだ物とは違う。これは新しい事実である。私たちは三原色を”物理現象”だと習った。それは世界の普遍的な法則であり、世界を記述する文法であると。しかし、新しい脳科学は、それを"違う"と導き出した。

 

光や色の三原色は、"普遍的”ではない。人が見たときにそうである、ということ。人の脳のなかで光や色の処理を3つの感覚器で受信し、刺激の強さで色を感じている。つまり、受け手の側の仕組みの問題であったという。何色が原書であっても良かったのだ。また、虫や鳥では、おそらく基本となる現職が違うだろうと言われている。それはつまり、どの周波数がその生き物の生態にとって大切な意味を持つか、と言うこと。

 

だまし絵、トリックアート、などでは、いろの組み合わせによって同じ色が違ったように見えたり、留まっているときと動いているときとでは、色が変わる、と言う物がある。そこに描かれた物が状況によって変わるわけではない。受け手側が受ける情報の種類と量が変わっている。それによって、色や光が変わったように見えるのは、同じ刺激に対する受け手側の反応が異なるのだ。

 

私たち、人の種、私の見る物が全てではない、基本ではない、普遍ではないのだ。

2009年4月19日日曜日

アナタとワタシ

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ワタシのステキは、アナタのイライラ。
アナタのオキニイリが、ワタシのフマン。
ワタシのアンシンが、あなたのフアン
アナタのキレイが、ワタシにワカラナイ

それがイイのとアナタがいう。それはイヤだとワタシがつぶやく。
それがセイギとアナタがどなる、そうではないとワタシがさけぶ。

アナタとワタシはベツなのに、アナタはワタシにオナジをシイる。
アナタはツヨク、ワタシはヨワイ。アナタはツヅケて、ワタシはツカレる。

ワタシのなかのイヤイヤを、ワタシはフサイでオサエツケる。
アナタとワタシはオトモダチ。

 

ちょっと非日常じみてていいでしょ。

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2009年4月14日火曜日

杜の始末

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都市の杜の始末
街中の社の樹が伐られた。住宅の真ん中に鬱そうとした杜。薄暗く、鳥のたまり場。風のざわめきはうるさく、舞い散る落ち葉は風情よりイライラの元、大風に落とされる小枝は傍若無人で遠慮なく、飛び立ち舞い戻る鳥は、近くに立ち寄り排便を済ます。
だから、街中の杜は伐られた。街中の杜は迷惑で、街中の杜は嫌われた。特別なこと?
”環境問題”、って、生態系の自浄作用とヒトの繁殖との戦い、というとらえ方はどうだろう。循環とは、増えもせず減りもせず。つまり増える分だけ消えていく。それぞれに割り当てられた領域でくらし、境界線ではせめぎ合いのサインカーブを繰り返して、移動平均はゆるやかだ。

楽しみと哀しみもまた振幅を描き、つまるとことろ、満足の近似線を何処に描くか。どこから下を不満にして、どこから上で、まあこんなもんだろうか、とつぶやくか。
杜も人も、鳥や花も、嫌われたり愛されたりの気まぐれなサインカーブから目を離せない。しかし、移動平均は緩やかだ。

都市の森再生工房

2009年3月12日木曜日

鬱と自殺の考察

ちょっと鬱。

憂鬱になる、死にたくなる、何もかもイヤになる、楽しいことなど何もない、エトセトラ。範疇に依らず、自分にまつわるあれこれは全て、自分の中に産まれる。始まり、きっかけ、原因、信号、刺激、トリガー、ハンドル、イベント、(この辺りはコンピューターの言葉)は、外部からの出来事にちがいない。人間関係であったり、生活であったり、仕事、友人、病、などなど、さまざまな気がかりが絶え間なく沸いてくる。しかし、おおよそ、考えても仕方のないこと。なるようにしかならないし、できることしかできない。突飛もない要望や願望を想っても、憂うだけのこと。

 

困ったのは、自分の内側なのだ。”イヤな気分” はどこから沸いてくるのだろうと考える。イヤだろうと何だろうとそんなことは構わない。なるようになれ、と理解していても、頭のどこかから、“イヤな気分”が沸いてくる。それはちょうど、イヤな奴につきまとわれてさんざん貶められているような物だ。あっちへ行ってもこっちへ行っても、耳元で、”イヤな気分だろう、憂鬱だろう、生きていてもしょうがないだろう”と、絶え間なくささやかれているようだ。自分が自分に向かってそんな言葉を言う。これはどういう訳だ。自分は自分の味方のはずだ。自分を守ってこそ、自分だろう。自分と自分は運命共同体、一蓮托生なのだ。(これは訳のわからない言い方だ。)つまりだ、自分の中の言葉が、自分を攻めている。それは、自爆行為だろう。

 

”自爆行為” といえば、アポトーシス、という言葉が浮かぶ。生物学用語で、不要な細胞が増殖をやめて死んでいく現象を言う。この自滅の制御が効か無くなった物が、”がん細胞”らしい。つまり生き物の形は、増えるべき部分と消えるべき部分のバランスで成り立っている、と言うこと。そこで、消えるべき部分の細胞内では、ひょっとすると、想像力豊かに想うに、鬱な状態を経て自滅するのではないか、などと想うわけである。なにも、全ての細胞、全ての生き物、すべてDNAが、”死にたくない”わけではないのだ。生は死に支えられている、食物連鎖はこれである。

 

そこから、社会の構築、集団の効率や目的には、それに適った構成員が必要で、それを妨げる物は不要となる。不要な物は排除する、これは自然なこと。つまり、鬱になって、アレもイヤ、これもイヤ、何もかもイヤ、と言う状況はある目的集団の効率化を目指した正常な排他処理ではないか、私の脳はそれを知っている、と言うことになる。うーん、抵抗したい。

 

まあともかく、”イヤな気分”に振り回されるのはまっぴらだ。線が見つかるならば切っちまいたい。不通にするのだ。”それがどうしたの?”と言えるのが、健全なのだろう、と思う。それは訓練だろうか、経験だろうか。一人くらいそんなのが片隅にいたって誰も困らないだろうと想う。そう、誰も困らないのだ。結局、誰の迷惑でもないし、誰も困らない。例え誰かが困ったって、この前述のようにそれはその人内部の問題なのだ。悩む人はみんな”困った”の回路を切っちまえばいい。誰も困らない。誰もが自分は困るけど、他人の困り事には感心はない。

さわごうと、わめこうと、時間は過ぎて、何もかも淡く、薄くなっていく。どんなふうにだって、けっきょく過ぎていくんだよな。

2009年2月20日金曜日

民族のプライド

ミャンマーでソバ栽培活動をしている先生の話を聞いた。その地方は、少数民族の集まっている場所である。ソバを収穫後、出荷するために市が立つ。皆が収穫したソバを持ち寄り、業者が品質をチェックして買い取ってくれる。集められたソバは、梱包されて工場または海外へ出荷される。

 

それぞれの村から代表が重いソバの実を担いで集まってくる。また、集まる人目当ての買い物市も立ち、皆が物々交換、または、お金で必要な物を買って村へ持ち帰る。そこに集まってくる人の衣装は、色とりどりで、おおよそ固有の民族衣装だという。そこには、部落のプライド、民族の確固たる主張がある。

 

ミャンマー、ビルマ、小さな国なのに(日本よりは大きい)、多数の民族が衣装で自らの部族を主張している。それは、可愛いとか、自分にはアチラが似合いそうだ、とか言う問題ではなく、けっして譲れないプライドを持っているのだろう。それは、日本人には理解できない。小さな村人は、そのプライドを侵す者には戦いを挑むのだ。殺し合いよりも、プライドの方が遙かに重要なのだ。だから紛争と虐殺が起こる。部族間、民族間の争いは絶えない。どこの誰だか知らない者の人命など尊ぶことはなく、自らの生まれの血筋こそが守るべき優先事項なのだ。衣装にせよ、習慣にせよ、守り神にせよ、その部族にとって大切な物は、誰にも侵させない。そのために戦いはあり、戦士はいつでも戦える。

 

ビルマは、地域の名前。ミャンマーは多数民族の名前だと聞いた。だから、自国民、出身者は、国をビルマと呼び、ミャンマーとは言わないそうだ。自分はその部族ではないから、ミャンマーの名は使わないと聞いた。

 

それも、地続きで、責めたり責められたりした歴史が育んだ自衛手段だろうか。島国ではその心配がない。それぞれ譲り合ってくらしていく。個性も部族もプライドも消えて、平穏な日々が続く。

2009年1月26日月曜日

重要な課題は、環境問題でなく、人口問題

人口問題こそ、全てにおいて優先される課題である。環境問題も、生物多様性も、戦争も貧困も、ヒトに偏った数の増加がその一因となっている。人口問題が解決されれば、すなわち資源が充分な量隅々に配分されれば、(ヒト以外の生物にも)多くの問題は解決する。

他の生物を見ると、総量においておおよそ均衡が取れている。増えたり減ったりする要因はあるが、増加もしくは減少の一途は、異常事態である。レミングというネズミがいる。集団自殺をするという。かれらは個体数が増し、密度が増えるとホルモン分泌の活発な個体が産まれるようになる。神経質な個体が増えてくる。イライラし、ヒステリックになる。その数がある割合に達すると、カタストロフィーがはじまる。興奮し、熱狂的になったネズミは、海めがけて更新を始める。その先を読むこともなく、脇目もふらず、まさしく狂ったように移動を始める。まるでそれが有意であり、英雄的であり、名誉と誇りをもった行動と言わんばかりに、迷いもなく突き進んでいく。

そして、廻りの空気が読めない、気が効かない、落ちこぼれが少数、そこに取り残される。死に損なった特攻隊のように。そして彼らは、種の存続を担って再び数を増して新しい時代を築いていく。

人口が増せば、領土が必要、食料が必要、エネルギーが必要、そして過密化と文化交流は様々な格差と競争を産む。競争は搾取と奴隷を産む。子孫は、環境の善し悪しや文明の未来、エネルギーの有無や生存条件の可否にかかわらず、生まれてくる。子を産むことは生き物にとって至上命令なのだ。生きていくかどうかは構わない。ただただ、自分の子を産み残すことが何にも増して最優先になる。そう言った因子だけが受け継がれる。子供はどんどん増える。それでも、人口を減らすか、一人当たりのエネルギーを減らすか。用意されている資源総量は一定なのだ。

経営理論に寄れば、最も収率の悪い部分から、もっともコストの高い部分から、もっとも大食いの部分から切り捨てられるべきである。

さて、、。

生物の多様性、絶滅種保護のこと

絶滅種保護、生物多様性の確保は、意味がないと考える。それは実現できないと思う。以下は、私の偏見である。

多様性;私の定義では、10あれば、お気に入りが2,無害が3,有害が5。 これが多様性である。好まざる物の存在を認めること、これが多様性の容認である。しかし、文明の進歩、豊かさの進展は、好まざる物を排除することで獲得してきた。それが連鎖のどこかで必要になるかどうかなど、誰も意識することもない。クモ、蟻、蜂、みみず、みんな遠ざけてきた。だから、どこか遠くで多様性を守って欲しい。しかし、自分たちの生活の近場はイヤだ。それは、都会は便利で人工的で埃もゴミも無いところにしておいて、気が向いたときに里山へ行きたいから、我慢できる短時間だけ里山は必要だ、と言う理屈と同じ。豊かな生活のためにゴミをどんどん掃き出すシステムが欠かせないのに、掃き出したゴミはどこか目の届かないところへやってほしい。そのための費用のほうが、里山に投じる費用より大切なのだ。そう言った人たちが、多様性と、絶滅種の保護を求めても、その目に何が映っているのか疑わしい。

生物は多様な種が、多様な環境下で、多様な形態を作っている。それはどうあるべきとか、条件を規定する物でもない。形が無くなんとでもなる不定自由な物なのだ。環境が変われば、生態系はそれに準じて姿形を変えていく。何かの種が消えれば、別の種がそれを補う。いつも地球はなんらかの生き物、DNAで満ちあふれている。それは誰かが好き嫌いを言う事柄ではない。憂うべきはわれわれの種の未来であって、他の種のことではない。誰かを守るほど、人は強くないし、他のどんな種より愚かだ。自分の首を絞めているのだから。

2009年1月22日木曜日

内臓が産み出す心  西原克成

と言う本を読んでいる。これは、私にはしっくり来るテーマである。心はどこにあるか。心は脳にあるか、それとも心臓にあるか。心は脳、大脳皮質にある、と言う定義は、心は人間だけの物である→大脳皮質は人間だけの物である→だから心は人間の大脳皮質にしかない。 という図式が見える。心は高等生物だけの物だろうか。

心は内臓にあり、という発言は、心は全ての生き物にある、それは全ての生き物に内臓はあるからだ、という図式になる。全ての生き物に、消化器と生殖器はあるのだ。

そのまえに、心とは何か、という定義がいる。私は2つに分けたい。一つは行動方向を決めること、もう一つは現実のイメージを作ること。

心の基本的な役割は、外の情報を取り込み、行動を出力すること。人の行動、仕草、慣習から見た心による作用は、犬や猫、トカゲや蛇と何ら変わりはないと思われる。人が大気圏外へロケットを打ち上げて喜んでいるのと、蜂が精巧な巣を造り上げるのとどう違うのだろう。核融合技術と、小さなアリが人の背以上のアリ塚を造り上げることとの違いはあるだろうか。その種にとって喜びでも他の種にとっては関心外、と言う点で同じ土俵に上げられる。私たちの言う、”趣味の違い”、そのものである。どちらもどこからか沸き上がる衝動に操られているに過ぎない。犬や猫、たこやイカに心などあるはずがない、と言う人々は、ほんの百数十年前まで、肌の色が違うだけの同じ種を、別種と信じて獣扱いし、彼らに心の存在など否定していたのだ。

脳が無くても心があるならば、心は脳以外の場所にある。脳は、中継所、データベース、ただの信号の集中整理場所にすぎないと思う。機械で言うIO(アイオー:InputOutput 入出力機構)。皮質はふくれあがる妄想を納める巨大なハードディスクに過ぎないのではないか。

心肺同時移植、という医術がある。心臓、肺、胸腺、は、発生源が同じなので同時移植は成功率が高いという。そして、移植をした者には臓器の持ち主の記憶が移ってくると言う。これを不思議とするか、事象とするかは、皮質の好き嫌いによる。

著者の言うように、食料を得ること、子供を残すこと、これが生命の行動目的ならその欲求の源は消化器であり、生殖器である。後者に対しては誰もが実感しているはずだ。

心とは、何かを成し遂げたいという欲求をかなえるための意志。欲求という命令を出している者の正体は何なのだろう。

2009年1月7日水曜日

独り言、プレカット勤務の頃

あるプレカット工場の創世記を一緒にすごした仲間が、亡くなった。くも膜下出血だから、予防も前触れもない。交通事故みたいな物だ、と医者は言った。

初めの頃。”プレカット工場を始めるのだけれども、やってみないか。” 昔の上司に久しぶりに声を掛けられた。木材業界では最先端のCAD/CAMを駆使した部材加工で、話しには聞いていたし、工場見学にも行っていた。設備装置やコンピューターには関心があった、しかし、建築は全く知らなかった、木材を扱ってたのにね。

”プレカット工場はたくさんできたし、飽和状態でうまく行かないからやめなさい。” 会う人誰もに言われた。だから、初期のメンバーは親会社の出向扱いだった。”わるいくじを引いたね、かわいそうに”。 プレカット担当になった人は皆から同情されていた。そのわけは、今でも私は判らない。だって、顧客業者にアンケートをしたら要望が多かったので踏み切った、と聞いていたからだ。

プレカット工場には、入力作業、部材を扱う工場作業、それをサポートする大工が必要だった。プレカットとは大工の仕事をするのだ。大工が家を建てるときの”構造部材の刻み”を機械が代わって行う。木造建築の組み方法は、立体パズルのごとく、木を凹凸に削ってはめ合わせるのだ。間取り図面をコンピューターに入れて、はめ合わせは機械が当てはめる。しかし、構造体や部材の割り振り、配置は人が決める。建築を判っている人が決めていく。それは、設計士であり、あるいは大工のことなのだ。

プレカット工場を始めるに当たり、大工を募集した。先輩曰く、”大工が多いと振り回されて仕事にならないから一人で良いよ”。プレカットは大工仕事を機械にさせるときに、かなり仕事を間引いているのだ。代わりにしっかりと強度試験データを握っている。それが効率化、無駄を省き、スピードアップの方法なのだ。大工のように、”見せるほどの技”は持っていないのだ。

募集した大工(A)さんが来た。しかし、年齢なのか途中で気が変わったらしく、取り消すと言ってきた。そして彼(B)が来た。陽気でおおざっぱな彼は精力的にあれこれと指示し、みんなを引っ張ってプレカットの準備を始めた。彼以外、プレカットの何たらを知る人はいなかったのだ。その後Aさんも結局仕事がしたくてプレカットに入ってきた。2人の大工さんは、よく仕事をしてくれた。職人さんだから終わるまでやめれない、ことを判っていてくれた。

”新しいプレカット工場なんて長いこと保たないよ、仕事もないし、工場は多いし、すぐにつぶれるよ、” と言われながらプレカットは稼働開始した。”いつまで保つかわからない”、 というつもりだったから、やれるところまでやる。もし、うまく行かなくなったときにでも、”あれ以上は仕方がないよね”、と言われるくらいやりたかった。背水の陣はちょっとオーバーかな。わたしもサラリーマンから遠かったので、仕事がはあるうちはやる、終わるまでやって無くなったら休む。大工さん2人はとても良く動いてしてくれて、1日何時間でも文句なく、仕事をこなしてくれた。大変なときも余裕があるかのように、慌ただしく時間が過ぎていった。気の済むまで仕事が出来て、それは、この先輩達に負うところが大きい。

”素人が始めた大工仕事”、で、ミスが多く、営業や取り巻きを初めみんなに多大な迷惑を掛けた。しかし、叱られてもどこがどう違っていて、何を怒られているのか判らない状態なのだ。仕事を誤った現場へ行ってリカバーするのが、その彼と私の仕事だった。昼は工場で、夜は現場へ材を持って、鋸とノミをもって出掛けた。夜の7,8時から出掛けて、11,12時に帰ってきた。連日そんなんだった。営業のご苦労で悪評判の割には毎月仕事は増えた。

モチベーションを上げていたい、これは私の望みであり、信念。自分のモチベーションは別として。愚痴や文句の少ない人は本当に心強くありがたいものだ。”励まし上手になりたい”、いつごろからか、そう思っている。私の愚痴や泣き言を聞いてくれた一部の人、とても感謝している。たくさん走った頃。長くて短い1日の頃。いつまで続くのだろうと言いながら、もう10年を過ぎてしまった。

背伸びをしなければ人生は楽しいけど、、

ありのままで、自分の良いように、素直にくらせればそれは、申し分のないことだけど、褒められたい、好かれたい、人気者になりたい、羨望でみられたい、可愛いと言われたい、きれいと言われたい、、、、、尊敬されたい、頼りにされたい、、、。

そう言った背伸びは結局、自分を苦しめるだけなのだ。だって、それは事実じゃない。みっともなくて、頼りなくて、不器用不格好で、不細工で無造作で、勝手でわがままで、抜けていて呆けていて、、、、それを受け入れられたら、それは楽しく幸せな気分になれると思う。それはつまり、人の目を気にしなければ、と言うことだ。人の目、批評批判という妖怪、魑魅魍魎に誰もがつきまとわれている。

好かれたい褒められたい、、、それは現実的な願いなのだろうか、、、。決してかなわぬ事で諦めるべきではないだろうか。振り切れば、バラ色の人生が広がるかも知れない。

だから、山奥や、田舎暮らしや、一人暮らし、ひいては、ホームレスに向けられる羨望になるのではないのか。

オレは、しょうがない奴だよ。あほで結構、何とでも言ってくれ。無視されても、けなされても、事実なら受け入れて、それが分別という物だろう。

ただし、この心という厄介者がさわがなければ。情動という物は、やっかいな物で、理屈も無しに騒ぎまくりひとしきり暴れないと収まってくれない。感情、エモーション、喜怒哀楽、これがある限り、平穏などとは望めないのだろうか。