2008年11月14日金曜日

間違ったことを言う かまわないと思う

歴史的事実と異なったことを言う。真実じゃないことを言う。ウソを言う。まあ、作為的な物はともかく。こういった物と言論の自由とは、どのような拮抗関係にあるのだろうか。私流には、何を言ってもかまわない。真実でなかろうが、誤った解釈であろうが、誤解を招こうが、作り事だろうが、それは言葉に出してかまわないことだと思う。言論の自由を支持する。

それはつまり、まず、言葉とはそれほどあいまいな物で、無責任な過不足のある情報だと思う。誰もがそれほど熟考して、論理的組立の上で話しているわけではないのだ。それが書き物だとしても。言葉とはキャッチボールに例えられるが、投げ手と受け手のどちらもが動かなければキャッチボールは成立しない。どちらも調整し、補正し、相手を思ん計ってやりとりをする。そのばそのばで言い方が違ったり、思惑が違ったり、うまく伝えられなかったり、集中できなかったりは良くあることだ。

つぎに、信じたことが真実、という考え方。万人共通の真理など無いのだ。一人一人が信じたものがその人の真理。別の人の真理ではない。誰かの主張を他の人は否定するし、議論をしても埋まることはあり得ない。さらには、脳は勝手に世界を造るのだ。”人は見たい物しか見ない”というのは生き物の構造的なもの。人によって見える物が違うし、見た形が違う。ある人は登り坂と言い、ある人は下り坂という。別な人は平らだという。” それは真理かも知れない(!??)。それを許せないと言う人は、単にそう言った世界観を個人として持っている、にすぎない。うまく避けながら、ぶつからなければ、それで平和が保てるのだ。

真実や、歴史的事実しか言ってはいけない、と言うことなら、未来のことは語れないし、金融商品など使えない。ましてや、宗教などまっさきにやり玉に挙がってしかるべき。だから宗教弾圧が起きるのだ。自分たちが信じるからそれは真実、それ以外は虚偽だ、という事柄を、世界のほとんどの人は否定しないだろう。全く同じ構造の生き物が、わずか前までは進化論を否定し、人種を別種と思い、魔女狩りを行い、想像上の財の増減に振り回されているのだ。

事実や真実についての論争自体、実は筋書きのある茶番劇のように、企みの意図に使われるのだ。

2008年11月9日日曜日

ワタシノシクミ 浮浪者?

私は今、ぼーっとしながら、生活ができている。なんとかちっちゃな仕事をもらってやっている。これで、仕事がなかったら、ホームレスだなあと思う。ホームレスには、意外としっくりと移行できそうな気がする。というか、才能がある?

他人の目が気にならない。他人の評価が気にならない。噂も悪口も誤解もどーでもいい。他人の評価などいい加減なのだ。

”あのときかなり怒ってたでしょう?”と、時々言われる。そんなに機嫌の悪いことはないのだ。”イヤな雰囲気でしたね、”それもちがう。つまり私は空気が読めないのだ、だから、読まない。何も感じていない。しかし、他人は勝手にこちらの気持ちを思い計ってくれる。”あなたの気持ちよーく判ります。” と言う奴も多い。そんなことはないのだ。判るはずがない。わかっているなら、そんなことを聞くな。そんな台詞は不要なのだ。その言葉から、私はあなたの気持ちをやっと悟る。

つまり、その時の一人の私を見て、多くの人がそれぞれ私の気持ちを察してくれるのだ。そしてその評価はバラバラなのだ。ある人はご機嫌だったといい、ある人は怒っていたという。ある人は苦痛そうだと言い、またある人はのんきそうでしたねと言う。私は想う、”あなた色の私です。” あんたの中の私に、とてもつきあっていられない。そんなヒマ人ではない。あげくのはて、”そんな人だとは思わなかった。”、”あなた、変わったね”、”意外な一面を見たわ。” 、ちょっと待った!ます。あんたの言う私を説明してもらわないと、話が返せない。だれかれの前で、あれこれ演じ分けるのは大変なのだ。

だから結局、”お好きなように、どうぞ。”となる。これは懸命なことだと自画自賛するのだが、いかがだろうか。

あなたが怒っているあなたは、私ではないし、あなたが苦痛に思う私は、私ではない。あなたの嫌う私を、私は大好きなのだ。まあ、困った自分だと思うことは、まま、多いけど。

だから、なぜそんなあやふやな他人の評価に、誰もが振り回されるのだろう。そんなことで、なぜ争いになるのだろう。つまり、人は争いが好きなのだ。相手をやっつけることが好きなのだ。いちゃもんを付ける習性があるのだ。生き物とはそうぢたものだ、と結論付けても間違ってはいないと思う。だから私は異端で、貴重なDNAで、やがて消えゆく運命の生命体なのだ。大切にしよう。

不安の存在 マイケル=クライトン

マイケルクライトン氏が死去した。よく読んだのです。中でも、環境問題に関して、”恐怖の存在”は、議論を醸した。私はこのタイトルを、”不安の存在”と、直したい。内容から見て、環境問題だから恐れおののくほどのテーマではないと思う。

私に残った印象は、”不安は金になる”と言う言葉。私流にいいかえて、”不安はコストを増す”。不安が増す度、その解消に莫大なお金が必要になる。現実にはなく、ただ、将来起こるかも知れないあれこれに対して、お金がどんどん吸い上げられる。

私たちの、世界トップ水準の高い生活維持コストは、いったい何処へ消えるのだろう。かなり効率的に仕事をこなし、生産効率が高く、安くて良い品をはき出しているのに、競争に勝てない。高収入が得られない、豊かな生活になれない。また一方、貧乏人がお金を欲しがるのは判る。しかしお金持ちがまだまだ、限りなくお金を欲しがるのはなぜだろう。贅沢に走らせる欲求とは何か、と考えると、”不安解消のためのコスト”と、思いつく。あれも不安、これも不安、やがて来るかも知れない不安の一つ一つに対処するために、お金は惜しげもなくつぎ込まれる。欲望とは、不安解消のためのモノ、とも言えそうだ。

食の安全を未然に防ぐ、万一の事故のための安全装置、10年後の訴訟賠償費用。たとえば、平均寿命が50年ならば、50までの不安でいい。10年に1回の災害は、10回耐えればいい。戦争や貧困の国では、.1週間先の不安だけ心配すればいい、それ以上は贅沢だったりする。しかし、今われわれは、遙か遠くの未来の不安まで対処しようとしている。通過する未来は1つなのに、来るかも知れない可能性は無限だ。人の豊かな想像力は、無限の不安を創造する。不安解消のためのコストは、無限に広がる。そこに経済がある。