2008年10月28日火曜日

恥って なんだろう?

「恥を知りなさい」「恥ずかしいと思わないの」「恥を欠かせないで」「私が恥ずかしいじゃない」「恥の上塗り」 。恥ってなんだろう。恥ずかしと思っていない人に向かって、「恥ずかしいとおもわないの?恥を知りなさい」は、変だと思う。糠に釘、暖簾に腕押し、と言う具合だよね。わたしは、「恥」がよく判らない。

「恥ずかしい」、とは、弱点を知られることを指すのではないのかな。弱みにつけ込まれて攻撃されることを避けるために、「恥を隠す」、のだと思う。恥を隠したり、恥を感じたり、恥を恐れたりするのは、恥じる本人であって、他人にとっては何ら関わり合いのないことだと思う。恥を感じていない人に、「恥じなさい」というのは、単に、八つ当たり、その人の中でイライラの感情を処理しきれないだけのことと思うのだが。

「恥ずかしいと思わないの?」は、相手の立場になって考えた時に出る言葉だ。「私だったら恥ずかしいわ。」と、対になる言葉である。感情移入、人格移動、視点切り替え、まあ、そんなところか。言った方の感情であって、言われた方は、何を言われているか判らない。「そんなものなのかなあ」程度である。「相手の立場になる」ということは、「相手の場所に単に自分を立たせること」、にすぎない。そこには相手はいなくて、二人の自分だけである。自分同士見合って「そうだよねえ」と自賛すればよいのである。まあ、それが言う側の目的なのだが。自分の考え方、自分の感じ方を、腹いせ紛れに語っているだけで、相手は消えてしまっている。だって、くどいがそもそも、相手は「恥ずかしくない」「恥と思っていない」のだから、「私だったら、、、」などという愚行はとりあいたくもない。

恥はまた、「これを恥にしよう」といった文化的な取り決めでもある。武士の恥と商人の恥は違う。貴族の恥と貧民の恥は違う。ただ、強弱関係で恥が存在することは間違いなさそうだ。生態学的には、相手を威嚇して、争いを回避できないできない時に、「恥を感じる」ことになる。「弱いと思われることが恥」なのは、文化に関わりなく共通のようだ。

2008年10月27日月曜日

新しい病は、長寿と共に、、、

"アルツハイマー”は、新しい病気だ。少なくとも一九世紀にはなかった。もっとも、検査や確認の方法が無かったので、特定できなかったこともある。遺伝性の物は当然あったことと思う。;

最近読んだ本の冒頭に出てきた。”アルツハイマー”、老人性認知症、ちょっとまえまで痴呆症と呼んでいた。この病の発病が、60才以上でほとんどを占めることから見て、長寿が故に現れた病と言えるだろう、と書いている。

長寿は、長生きは、命は、何処まで大切なのだろう。生きることと増えることは違う。私の持論は、生き物は増える物、と言うこと。数を増やすことが使命だと思う。そして、長寿は使命じゃないと思う。長寿が故にバランスが崩れて要ることがたくさんある。新陳代謝があって、健全さが保たれる。;入れ替わりのないことは、危険なことなのだと思う。;

年寄りか子供か。エネルギー投資と未来への期待を、考えなければならない時が、きっとくる。同じ時代に同じ時を生きるために、どのくらいのエネルギーを費やすのか。それを比べて未来を見据えないといけない。人口増加と食糧難。貧困格差と憎悪の増大。無知からの悲劇と感性の支配。”ゆたかさ”への麻薬的な従属。誰を守り、誰を駆逐すべきか。善と悪、必要と不要を新しい道徳観で判断しなければならない時が、そこまで来ている。

2008年10月23日木曜日

ラクゴの楽しみ らくだ

らくだ タイトルだけで話を想像する。しかし、この場合は全く意味がない。意味ありげなタイトルは話に全く関連がない。しいていえば、隣近所になじまない異質なものを、不意義な動物に例えて”らくだ”という呼び名が付いた、のかな?動物は出てこないし、異国の話でもない。

”らくだ”と呼ばれる男が死んだ。そこへ兄弟分の男が偶然尋ねてきて、見つける。葬儀を出してやろうとするところへ、辺りの事情を知った紙くず屋がそこに通りかかり、二人で葬儀の段取りをする。”らくだ”と呼ばれた男は乱暴者でむちゃくちゃ、嫌われ者で、近所の誰もがその死を喜こび、安堵した。葬儀などとんでもない、と言う隣人に対し、兄弟分の男が嫌がらせをしながら、”つべこべ抜かす奴には、死人を連れてきてカンカン踊りをさせましょう、と言ってこい。”、と言う具合に葬儀の準備が進んでいく。

やることは乱暴でも、死んだ男の葬儀をするのだから、筋の通った行いではある。

ここの一つのキーである、”死人のカンカン踊り”のくだりは、ちょっと昔の映画でよく使われた。私は映画で先に知った。いろんな作品で出てくるので有名な逸話だと思っていた。これが出展と知ったのはこれを聞いてからだ。邦画で言うと、エノケンの法界坊(だとおもう)、ハナ肇の”バカシリーズ”、渥美清の無法松の一生みたいな話(題は忘れた。)伴淳三郎もやってかな?

この演目は関西でも東京でも多くの演者がやっている。タイトルも同じ"らくだ”。筋もアレンジは無いようだ。結構長い話だけど、きちんとした物語になっているからオチだけではなく、それぞれの登場人物のやりとりなど話全体を通して楽しめる。いろいろな演者を聞き比べて楽しめる演目である。

ラクゴの楽しみ 千両ミカン

おもしろくないから流行らない、という枕を聞いたこともある。結構いろいろな人が演じているが、難しいらしく、どうもあまりわっと沸かない。

そもそもの出だしにも無理がある。庄屋の大事な息子が病で倒れた。原因を探ってみると、”ミカンが食べたい。ミカンを食べないとあと数日の命だ”という。庄屋の親父は、”金に糸目は付けぬ、ミカンを探してこい。”と。その指図を受け、番頭がミカンを探しに行く。時期は6月、真夏にミカンを探す。今の我々にはピンと来ないが、ミカンは冬の物。冷蔵保存手段のない時代には、夏にミカンなど、とんでもない。そのミカンを探して奔走するお店の番頭さん。東奔西走の果て、ミカンの問屋でやっとミカンに巡り会うが。ここから話が盛り上がります。

このオチはあまり期待しない。というのも、オチは誰がやってもあまりアレンジしないようだ。時々時代的に理解できないオチはわかり安く言い替えることがあっても、オチの筋を替えることは聞いたことがない。誰がやっても同じオチなので、誰がおもしろいという物ではない。ちょっと心許ないオチで、なんだかその先にまだ話があったものを、キリのいいところで打ち切って演目とした、というような感じもする。

聞き所は、ミカンを探すところ、千両の値が付くまでの番頭と問屋の主人のやりとり。この辺りは工夫のしどころで演者によって違う。番頭にポイントを置くのか、問屋の主人を持ち上げるのか。オチに向けて振る人もいる。どこを延ばして、どこで持ち上げて引っ張り、どこで落とすか、知恵の絞りところ。

いろいろの演者で聞いてみたい話の一つです。

2008年10月18日土曜日

「日本賞」教育番組国際コンクール 10/22~28

http://www.nhk.or.jp/jp-prize/index_j.html

教育番組のコンクールである、日本賞 エントリーと審査が始まる。これを毎年楽しみにしている。この一年間世界で放映された教育番組、ドキュメンタリーの中から優秀番組がエントリーされて、テレビ放映されるのだ。

コンクールのおもしろさは、テーマもさることながら、写し方、取り上げ方、構成の仕方にそれぞれのお国柄、工夫があって感心することがおおい。同じテーマを異なった環境の国で、異なった基準で、異なった観点から捕らえると、問題点がどこにあって、どうすればいいかなども、自分がこれまで持っていた基準と異なってしまう。我々の評価基準こそが、問題の原因だったりして、解決すべき問題だと思っていたのが、そのままの方が正解だったりする。

もっとも、正解なんて物はなくて、どっちへ転んでも不満だらけと言うことは、まま多い。結局は、関わる人たち自信の満足度で評価が決まる、のではないだろうか。

審査を終えて、今度の土日は、終日放映されることだろう。万全の体制で録画に挑まないと。

2008年10月10日金曜日

愛は、生きとし生けるものから、受け継いだもの

唐突だが、うちにはかつて猫がいた。迷い猫だ。良くある経過でミルクをやっていたら居着いた。その猫は大変賢い猫だった。いろいろなことを学び、懐かしく思い出す。

よく私の部屋を訪ね、布団に潜り込んできた。ドアをカリカリと叩く。屋根に続く窓をたたく。それを合図に私は窓を開けてやる。私は寝て、猫はしばらく毛繕いをする。猫は眠くなると私の頬を軽くつつく、爪は立てない。私は布団の端を上げてやり、猫は脇へ潜り込んでくる。そこに、合図とお約束ができる。それは双方が応じないと意味をなさないものだから、猫も私もおなじように学習したのだ。どちらが賢いかを問うのは愚問だ。

その猫が庭で寝転んでいる。そばを子猫が通りかかる。うちの猫を見て子猫が威嚇を始める。背を丸め、尾を立て、”フー”っとうなる。しかし、うちの猫はそれをちらりと見ると、無視して毛繕いを始めた。子猫はそのままうなっている。相手が子供で脅威のないことを承知している。それは落ち着いた態度だ。相手が犬だと、こうはいかない。

妹に子供が生まれて実家たる我が家へ帰ってきた。我が家の猫が心配だ。産まれたばかりの子が引っかかれやしないかと心配した。しかし、猫だろうと大人は大人。子供と大人を見分けるのだ。ちゃんと遠回りをして歩くし、決してちょっかいを出しには行かない。遊びたい時は私の所へ来るのだ。やがて赤ん坊は自我に目覚め、手や足を使い出す。時々母を訪ねて妹が子連れで家へくる。赤ん坊は猫とおもちゃの区別が付かないから、尾を掴み、頭を掴み、背中を掴む。しかし、その猫は決して噛んだり引っ掻いたりしないのだ。静かに逃げ回るだけだ。研究熱心な私は、同じ事をしてみる。すぐさま反撃にあい、最初は爪、しつこく続けると手で抱えてかみつき、脚で引っ掻くという高等技で私の手を血まみれにする。しかし、八百長試合に似て、大けがはしない。跡はしばらく残るが。

猫と飼い主たる私の間には、さまざまなルールと合図ができ、しばしの時を一緒に過ごす。理解とは、同居には欠かせない大切な技術だ。そう言った普遍的な適応に霊長類だけが突然持ち得た、と考えるのは手前味噌も甚だしい。大昔に得た物が遺伝によって伝えられている、と考えるべきで、人の専売特許など、何一つ無い、と答えた方が高得点だろう。

ましてや、愛と芸術などは、有性になった途端現れたとすれば、算術のごとく理路整然ではないか。めでることは、全てが愛に通じ、ほとんどの生き物に通じる。愛情や芸術は生き物の専売であって、人の文明の産物ではない。アートやセックスはゴキブリも鮎も、カニやオットセイも平等に大切な物、賛美される物なのだ。

霊長類たる分別のある生き物は、厳かに慎ましく、生物界に感嘆するべきと思う。

2008年10月2日木曜日

ライフゲーム 生態系のシュミレーション

人生ゲームではない。生物集落(コロニー)の発展と消滅をパソコン上でシュミレートしたプログラムのことである。とは言っても味気ない物で、30年前のパソコンを懐かしんでみたりもする。パソコン画面上のドットを生き物に見立て、産まれ、群れ、膨張、分裂、拡散、を繰り返していく様をただ見ているだけの物。点滅1回は1世代を現す。行き続ける物、産まれる物、死滅する者が画面に図柄を描く。

関心のある方は、WikiPedia をご参照下さい。

http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win/game/sim/life/

もう少しイメージを説明する。方眼紙を広げる。そこにランダムにいくつかの点を打つ。点同志が接している部分もあり、単独の部分もある。そこに、ルールを適用する。考え方は、個体数密度が条件に合えば生きて、それ以外は死ぬという物。

1,空白セルに3つの生きているセルが接していれば、空白のセルが生きてくる(誕生)

2,生きているセルに、2つまたは3つの生きているセルが接していれば、次世代も生きる(生存)

3,上記以外では、次の世代に生きれない(死滅)

ゲームが始まると画面全体が点滅を始める。点滅1回が1世代で、1世代ごと上記ルールが適応されて模様が変わっていく。

さて、ここでは個体密度が生存を決める。はわかり安く言うと食料の分配率である。適度な密度で個体数は増え、コロニーは発展する。密度の維持とは、産まれる者と死ぬ者の調整である。調整は内部でのバランスだったり、外部からの来訪や、群れの分裂だったりする。少なくとも、どこかのコロニーがどんどん大きくなって、全体を支配すると言うことはない。無限の食料は無いのだ。

結局多くの場合、長い時間の果てに安定するのは小さなコロニーが点在する状態である。適度な距離で点在し、領域内で生産循環している。それはビオトープに見る環境である。拡大も繁栄もしない、しかし、消滅もしない。しかしそれは満足のいく状況だろうか。満たされた環境と言えるだろうか。

つまり、そこに暮らす者がどう考えて、何を目指すか、何を足るとするのかに掛かってくるようだ。次世代に欲の遺伝子はどの方向に誘導されるのだろう。

井上陽水のたのしみ

井上陽水の楽しみは、なんと言ってもその言葉だ。言葉のおもしろさとはそう言う物なんだなあと思う。リズムやメロディに沿って流れる、言葉の一つ一つの関わりが、巧みに絡み合う。それが、他のアーティストとは異なる彼の舞台だろう。意味があろうと無かろうと、何よりも言葉の意味と音とを踊らせる。言葉の持つ表の意味と裏の意味、読み方に誘われる同音異義語にも感心するのである。

音楽、ミュージック、歌、歌謡、ほとんどのテーマは、愛であり、異性であり、直接的にも間接的にも、比喩的にも、心からわき出る気持ちを何とか相手に伝えようとする手段でもある。訴える、叫ぶ、つぶやき、読みあげる、言葉で表せないその気持ちを、リズムやメロディに乗せて、すこしでもこの気持ちを付加したい。それでも伝えきれないもどかしさやイライラも、音楽の持つ魅力である。それはそれで打つ物はあるが、別の象限で陽水の唄は、言葉遊びに似た楽しみ方を教えてくれる。

時に古語の持つ穏やかな不思議な感触を風にのせ、また時には意味のない韻の連なりがパーカッションのごとく、軽い乗りを教えてくれる。和歌や短歌は詳しくないが、伝達手段が限られた頃の言葉の遊びは、このくらいに楽しかったんじゃないかと思わせる。歌を詠みあい交わし合う時、もちろん愛の言葉の交換がほとんどだったに違いないが、言葉遊びで相手を感嘆させる競い合いもあったのだろう。どこでもいつでも、遊び心は粋とされる物なのだ。

落語では船の旅などの暇つぶしに言葉遊びが語られる。”色と掛けて、桜の散った後と説く、こころは次に葉が続きます”。甚句、掛け詞、しゃれ言葉。意味と音が絡まり合って織りなす綾を、耳から入れて、頭でひねって、切り返して、解きほぐしていく。リズムとメロディが受け皿のようにそれを運ぶ。そう言った聴き方が独特で楽しい。

思いの外は生きること、思いのままは暮らすこと

時々はデパートで孤独な人のふりをして、満ち足りた人々の思いあがりを眺めてる

おそらく、その国で育った人にしか判らない楽しみ方だろうと思うし、世界中の人がそれぞれに、こういった自分たちだけの文化の遊びを持っていると思う。嬉しくもあり、悔しくもあり。

2008年10月1日水曜日

ワタシ ノ シクミ の1

私の特徴は、と言うと”こだわりのないこと”だとおもうのです。すべてのことが、”それがどーしたの?”と、言えてしまう。そこがちょっと緩んでいる部分だと思うのです。だから、回りは心配したり、イライラしたり、嘆いたりしますが、本人はそうは思っていない。本人がそう思っていないのに、回りがそう思うのは変だ、と思いませんか?"あんたのために言うんだけど”といったときの、”あんたのため”までは、解る。つづく、”~~~だと思うんだよ”の部分は、言っている人が思うんであって、言われている私の想った部分ではない。その辺りのギャップを感じつつ、時間の波を数えているのです。

”あれがほしい。これがしたい、あれがゆるせない、ここはゆずれない。” さまざまな動機で生き物は行動をする。それが、紛れもない事実だったり、正義だったり、使命だったりするけど、それは単に幻想にしか私には見えない。落ち着いて考えるとそうでなくては成らない理由や目的は、どこにもないし、許せなかったり、譲れなかったり、欲しい、好きだ、離したくない、は一人一人、一つ一つの脳の中でのことにちがいない。全てが個人的な一つの脳の中で完結する物語なのだ。つまりそれを”価値観”と言うが、だから価値観に根拠など無いのだ。誰もが勝手な価値観を持ち、その結果、抱きしめ合い、罵り合い、笑い合い、殴り合うのだ。寸分違わぬ同じ構造の、同じ種の、同じ時代の隣り合った席でも、価値観は自由奔放だ。誰もが勝手な根拠と理由を持っている。全ての人にとってそれが唯一正しい。

特に、あれが欲しい、手に入れたい、と言う欲望には、果てがないわけで、苦労して手に入れるとそれは満足の一言で消え、さて、"はい次の人、どうぞ”というごとく、次々と欲しくなり、イライラいするわけです。ある人には生き甲斐で、ある人にはとても疲れることなのです。

でも、やらなくちゃとか、悲しませたくないとか、逃げたくない、と言う気持ちには逆らえない。欠損していない部分では、それなりの欲仁対して、満足を求めているのです。