2008年8月30日土曜日

鰯の群れ



 鰯はなぜ群れるのだろうと、昔思った。鯨が鰯を追い詰め、その下から大きな口を開けて浮上し、鰯を丸呑みする。鰯は群れる必要があるのだろうか。群れなければ、鰯が大海に分散していれば、鯨は糧を得られない。鯨はおそらく自分を支えるえさを1匹づつ追い詰める体力と素早さは持っていないだろう。
 生き物は死を逃れようとする、これはそうだろうとおもうけど、恐れてはいない、とおもう。鯨を支えるため、鰯は自らを太らせて、群れて鯨を待たなければならない。それがシステムの一環。

 藤子不二夫の短編SFマンガに、"ミノタウロスの皿"という傑作がある。地球人の宇宙飛行士が放浪の果てにたどり着いた星は、牛に似た高等生物が支配し、”ウス”という人に似た生き物が彼らの食料となっている。人に似た生き物”ウス”は、品評会で最高の肉に選ばれることを名誉としている。そために自らを磨き成長している。クズ肉として食べられるのは不名誉なこと。
 品評会で優勝し、最高級肉として”おいしい”というその賛美を聞きながら、生きたまま食べられるのが最大の名誉なのだ。”だって、そのために生まれてきたのだもの”と、地球から来たパイロットの前で、美しいウスの少女が言う。皿に盛られて彼女が品評会会場へ向かうのと見て、招待された席につけずにただ見送る。
 きれいな少女が食べられるのはかわいそうだといっても、”地球人は肉を食べないのか?”との問いに、答えられない。

 死ぬことは悪くない。死にたくない、ことは悪くないだろうか。不老不死を願うことは、正しいことだろうか。長寿を祝えるだろうか。産まれることと亡くなることのバランスをどうやってとっていくべきだろう。

2008年8月24日日曜日

カメラのこと 

 カメラの魅力って何だろう。私の回りにもカメラファンが多い。かつての上司もそうで、モノクロのタブロイドフィルムで樹木や景色の写真を撮っていた。かつての部下は、式場カメラマンになりたいと、勉強してると言って高価なカメラを買っていた。ときどき山へ行くと年配の方々が、重たいカメラを担いで、巨大なレンズを小さな花に向けているのを目にする。嬉々としてファインダーを覗き込む姿が、万華鏡を手にしているように見える。カメラのレンズを通る景色は、よほどすばらしく見えるに違いないと思ったりする。
 カメラセンスのない僕は、カメラや写真を楽しめない。実は、写真にはがっかりすることがよくあるのだ。目の前のすばらしい景色を残したいと写真に撮るのだけれど、写真を見るとそのすばらしさが見えてこない。”ほんとはもっと感じるスゴイ景色なのに”ってね。そう言った意味で、”写真は創作作品だ”ともおもう。”撮影者の意図”を現すことのできる媒体だって。

 カメラのレンズは1つで、人の目は2つ。私の好きな錯覚や、トリックアート、だまし絵などはカメラを通すとその幻をよく映す。1つのレンズでは2つの目が見る物を補えきれずに、一部の情報が捨てられる。写真を見た人の脳がそれを補足するから、トリックやだまし絵は写真の方が不思議に見える。写真では不思議で判らなくておもしろいものが、現物を見てみるとがっかりと言うこともある。


 それにしても、最近のテレビで見る花火映像はとても不思議な絵柄だ。ちょっと前までは花火はカメラに写らなかった。闇が闇でなかったり、光の残像が残ったり。デジカメでは更にひどい。光不足に弱いのだ。
 花火撮影ではどうやって露光を拾い、焦点を合わせるのだろうか。闇の中で光ってすぐ消える像はとても難しい技術だと思うのだが。そう思うと、デジタル映像は編集が自在だから、花火などは合成映像ではないかと思うのだが。カメラ内部での技術のことで、シャッターを押す前に、自動で時間差で何枚も撮っておいて1枚に合成するくらいは、造作もないことだし。どうなのだろう。

弓月光のこと ~漫画家~


 漫画家、弓月 光 のファンだ。今はアダルト向けのマンガを書いているが、もう少し先には、ぜひSFマンガを書いて欲しい。きっと構想を貯めていると思う。
 弓月光の作品”甘い生活”は、今連載中のアダルト向けギャグマンガだが、所々にちりばめられた、SFのエッセンスが嬉しい。と、これを書いたのも、いま出張で泊まっている工業地帯のホテル群のてっぺんに、ヘリポートが見えたからだ。下から見上げると円盤が乗っているようで、”甘い生活”の背景に出てくるテレビ局に似た姿が連想される。アノ伝説の宇宙船に見える。

 弓月光は少女マンガの古株だ。自分が中学生自分には読んでいた。その頃の作品は、発明家物、マッドサイエンティスト物、人格交換物。マニアックと少女読者との危うい境を彷徨って、何とか生き延びてきたように思う。そのアンバランスな面に煮え切らない物を感じる。バアっと開放して欲しい。というと、今のアダルト路線は開放中なのかな?


 私の一番のお気に入りは、むろん本格SF、スペースオペラ(これも古語になってしまった)”トラブルエクスプレス”だ。緑のキチン質の宇宙船生命体の話は、スタートレックにも似てクラシカルな王道の物語だと思う。映画、”メンインブラック”を見たときには、このコミックのページを思い出した。
 日本のコミックの映画化ブームだけど、この作品が映画にならないかな。

2008年8月17日日曜日

万能の生物

 昔、”なぜ万能の生物がいないのだろうか”と、考えていた。生き物は死にたくない。死なないための方法や技術をいろいろな生き物が持っている。たとえば、人の頭脳と、ヒョウのすばしこさと、クモの糸、サソリやふぐの毒、亀の甲羅、カメレオンの擬態、、。生き物の設計図には様々な優れた部品が登録されていて、万能な生き物など容易にできると思う。死なないための方策いくらでもある。しかし、そんな生き物はいない。俗な言い方をすれば全ての生き物はどこか抜けている。最強の組み合わせを避けているように見える。

 やがてその理由が説けた。もしもそう言った最強の生き物が現れたとする。最強の生物は敵がいないからその繁殖を妨げる物はいない。その生き物は瞬く間に増えすぎてやがて、食料を失うだろう。地球という器もそこで産み出される糧も無限ではないのだ。結果、その生き物は自ら死滅するだろう。つまり、簡単な理屈なのだ、直線的では終わりになる。長い世代を存続しようと思えば、円、循環に組み込まれなければならない。増えたり減ったり、笑ったり泣いたりを同じくらいにしなければならないのだ。

 ”生き物は死にたくない”という前提が誤っているのだ。生き物は生き物を糧にしなければ生きていけないから、死ぬことを拒否できない。循環連鎖の中で、誰かが死ぬことを拒否すれば、彼らは連鎖からはじき出される。未来に生きることはできない。糧を得ることと糧になることは同意なのだ。そして、生き物全体を一つの系(システム)とすれば、たとえばガイア理論のようなものならば、全ての生き物が新陳代謝の対象となる。産まれて、貯えて、託して、消えていく。ガイアの循環の一部であることを拒否できない。
 DNAはおそらくどんな形でもかまわないから未来へその形を残したいのだろう。あらゆる可能性を追求し、あらゆる形を残し、不慮の事態に備えている。どのDNAを次が残ってもかまわない、残りさえすれば。
 種としての生き物は死を拒否していないのだ。例えば、示された死のルールに沿って時を過ごしている。大きな生き物の1つのセルとして。

 生きていく中で、必要で大切な物には快感が伴う。セックスや誕生、食欲や支配欲のように。死はとても大切な必須の出来事だ。まな板の上の鯛は、快感に打ち震えて死んで行くに違いないと、考えている。

脳とコンピューター

 ぼくが、心や意識、脳の問題に関心があるのは、一つに自分の疎外感のこと、つぎにコンピューターを取り巻く仕組みに類似性を感じるからだ。趣味兼仕事でパソコンとシーケンサー、それを組み込んだ機械を見てると自分の仕組みとの類似性を思わずにいられない。もちろん、人の形作る機械や仕組み、身の回りの物事には手本があって、それを産み出す手順もこの脳から産まれる。脳が知っていることからいろいろと教わっては具象化しているのが私たちの世界だ、とも言える。
 
 脳の発達を見ると、その低位は反射に見られる。特定の刺激に対して決められた応答を返す。単細胞生物の行動やら、我々の中にもある危険に対する反射行動はそれだ。CPUを組み込まない機械システムはこの形である。メカニカル制御とも呼ぶこのシステムはたとえば、初期の織機機械に見られる。カムとリンク、歯車やクランクが一方の動作を受けて、別の形の動作を返している。
 反射の信号を記憶したり、信号同士を演算して判断をするようになると神経節ができ、やがて脳となる。初期のシーケンサーは、入出力信号同士の演算をして結果を返す。シーケンサーに時間制御のタイマーが着く。一時記憶したり、時間的推移を記憶し、偏差をつかう。機械でのその上位制御では、動作部位にセンサーを備えて動作ごとにその推移を逐次把握している。各センサーからのデータを記憶蓄積し、演算し、差異や時間的な推移とその関連を分析整理し、出力信号を創り出す。
 今の機械では、CPUの中に、機械全体の動作出力信号、センサーからの入力信号をそっくり組み込み、バーチャルな状態でほとんどの動作を事前に再現できる。これは私たちの脳その物だ。”ホムンクルスの小人”と呼ばれる脳の中の感覚配置を模した絵のように、そこに繋いだ配線からその部位へ動作命令を送ることができる。

 パソコンの発達にも同じ物を見ることができる。パソコン初期の”マイコン”と呼ばれた時は、用あるごとにキー入力や出力の切り替え、それぞれにプログラムを書いて、信号のやりとりを意識してプログラムを作っていた。やがて、OSと言う名の基本プログラムにいくつかのプログラムが含まれ、機器との関連もその奥深くに仕舞われた。まるで、ミトコンドリアやゴルジ体を内包する真核細胞のようだ。ユーザーは、その名前を呼ぶだけで複雑な一連の命令が実行できるようになった。windowsに見るGUIグラフィカルなインターフェースは、これもホムンクルス同様、画面上のシンボルが実在の機器を示すようになった。windowsに見るディスクトップは、まるでパソコンが見る意識世界その物だ。私は時に、パソコンの見ている夢の中をのぞき見ている感覚に陥る。

 ”世界は脳で造られている”とは、この種の書籍でよく見られる言葉。私たちの意識し描いている世界は、私たちの感覚器で知覚できる範囲の世界だ。犬やフクロウ、モグラやハチは感覚器が違うので別の世界を描いているらしい。コンピューターに繋がれているそれぞれの感覚器も、これからは人の感覚器以上の様々な信号が与えられることだろう。そうすれば、コンピューターは人の想像の及ばない知覚世界をその内部に形造っていくのだろう。あらゆる周波数帯の光や音、磁力や放射線、あらゆる化学物質の密度変化を描画できる世界は、そこに住む生き物は現れるのだろうか。

 話がどこへ行くか判らなくなってきた。こんなところで。