2008年7月6日日曜日

物価は高くない

 人は、総合的な判断はできない。広い視野は持っていない。それどころか、人のイメージは集中固執の性質がある。続ければ続けるほど、その支配が広まっていく。だからこそ、集中力が産まれるのだ。

 食料品、石油、身の回りの品々を見る。値上がりが激しい。生活費に占める食費、住居費、エネルギー費用の比率を見る。様々な国や地域と比較する。それを批評するのはいい。

 しかし、テレビ、パソコン、携帯電話、化粧品、ファッション、車や高速鉄道、保険や医療費、水や安全、明日の保証などを見て欲しい。これらを世界の国や地域と、同じように比べて欲しい。わが国の例えば、食料やエネルギーを買い入れている地域では、私たちと同じ生活を実現していくためには、どのくらいを支払っているだろうか。私たちの階級は、彼らのどこに当たるのだろうか。”いくらお金を払っても追いつかない”という事はないだろうか。

 だから、ずるい。目的に合った都合のいい比較なのだ。

 水や電気の確保、暴力や略奪からの回避、明日や10日後の安否でなく、10年後の生活を心配していることが、どれほど高価で、贅沢な物かを感じられないでいる。世界基準から見れば、もっと高いお金を払ってもいいんじゃないか。
 それを払わないで済んでいることが、どういう事なのか。誰がそれをもらっていないのか、考えてみたい。

炭酸ガスじゃなく、エネルギー生産のせい

 温暖化は進んでいる。そりゃそうでしょ、私たちすみかのまわりで、熱が発生することはあっても吸収されることは何もない。いくら探しても見つからない。
 その、温暖化の原因を、”炭酸ガスの増加”のせいにするのは、やはり無理がある。炭酸ガス濃度の上昇は、温暖化の結果として現れた現象と見るべきだろう。炭酸ガスは、そんな大物じゃない。

 エネルギーを生産すれ熱が出るのだ、エネルギーを変換すれば熱が出るのだ、エネルギーを使えば熱が出るのだ。エネルギーを扱う限り、変換効率の差分だけ熱が放出される。金槌で鉄を叩いてごらん、熱が出る。運動すれば、熱が出る。病気を治そうとすれば体力の限り熱が出る。モーターを廻せば熱が出るし、車は冷却器がないと動かない。コンクリートも焼いて作る。発電だって、原子力だって、ほんのわずかなエネルギーをとりだすのに、どこくらいの冷却を必要とするのだろうか。必要なエネルギーの何十倍かが、絶えず熱として廃棄されている。言われてみれば誰もが気づくこと。全てのエネルギーの末路は、”放熱”なのだ。それは、エネルギー拡散の法則に乗って、宇宙へと散らばっていく。

 石油エネルギーだろうと、原子力だろうと、太陽エネルギーだろうと、どんなエネルギーであれ巡り巡って、結局最後に全て熱なる。つまり、エネルギーの代替を求めること自体、問題の全くの見当違いなのだ。これは、ゴミ問題に似ている。生産したら最後、廃棄しなくてはならない。途中消滅はあり得ないのだ。汲み上げた分だけ、作りだした分のエネルギーが、すべていつかは地上に放出される。難しい想像ではない。

 温暖化防止に必要なことは、エネルギーを生産しないこと、エネルギーを使わないこと、エネルギーを要求しないことを目指すべきなのだ。山や海が循環冷却できるだけのエネルギー産出に抑えるべきなのだ。

 しかしそれは、科学の進歩と、経済的な発展を否定することになる。欲を否定し、未来を否定することになる。エネルギー増加無くしては、迎えたい未来はなしえない。
 なににせよ、文明は未来を冷やすことはしない。生き物はいつでもどこでも熱い思いを持つ物なのだ。