2008年6月24日火曜日

老害だって、思う

 生まれた子供の三人に一人は亡くなる。平均年齢は50才。限られたエネルギーと行動範囲、ささやかな喜びと大きな哀しみを背負って、それでも感謝しながら活きていく。そう言った生活が、進化の波にさらわれずに種として残っていくのだろう。遙かな未来、新しい種が地上を支配しても、若気の至りを横目で見ながら暮らしていく。例えば今の、類人猿のように。

 長寿こそが、ちょっとしたかつ大きな過ちだと思う。寿命が延びることは決して歓迎すべき事ではない。生きることには限りがあるのだ。食物連鎖に見るように、ある生き物の死は次に生きる者の糧になる。限りある席は譲らなくてはならない。老いた者が何時までも欲望に身を任せて席を増やさせてはいけない。潔さこそが、理性のなせる技。いくつかの種に見られる、いつのまにか群れから消えていくのは、成体の証しなのだ。

 人口の増加は未来への大きな障害であるが、そのための産児制限は、より愚かで残酷だ。それを唱える者がいたら、それこそ老体の醜態以外あり得ない。生殖は止められない。それは生き物の定義部分。美容やファッション、恋や愛、ときめく気持ちを多少なりとも否定することはあり得ないこと。生殖亡くては生き物の定義が消える。死ぬまで恋はすてきれない。

 しかしながら、長寿は時間をもてあます時、大きな無駄使いとなる。出会うこと、恋すること、新しいいのちを迎えること、育っていくこと、それが最大の喜びであり生き物の頂点である、それを終えたときぽっかり空いた代わりをどこへ求めるというのだ。恋愛のすばらしさをお金に換える時、どれほどの膨大な無駄使いもそれを埋めることはできない。さまざまな欲望を次々と充足しても、それは記憶され更なる欲へと向かわせるが、もはや決して完遂することはない。あるいは、科学や進歩発展へと費やすとき、一時的な満足こそ得られてもやはり同じ事。科学の進歩や発達は、欲望の変わり身で、それにも同じようにきりがないのだ。
 
 幼体、成体、老体、と分ければ、一般的にその基準は生殖にある。その前、生殖期、その後だ。費やされるエネルギーは、老体の方が多くしかも益がない。老体一人に対し、幼体をどれほど養えるだろうか。欲の強さもたぶん、老体が一番だろう。幼体は育ちさえすればいいし、成体は、子供さえいればいい。動きのままならぬ体を抱えて、余計なことを想い命ずるのも老体だ。成体はその体力で自ら切り開いていけばいい。

 願わくば、そうそうに、静かに終わりが来ればいい。そっと席が譲れればいい。老いはそれを通り過ぎたことを意味し、決してもどることはないのだ。それは理解し、満足しなければならない。それはそれで良しなのだ。

2008年6月21日土曜日

イヤなことは、聞こえない。

 なるべく良い気分で居たい。それは、限られた時間を有効に使いたいし、物事がうまく運ぶし、早く終わるし、勉強も、技術の習得も、感動や快感も、良い気分の時の方が得やすい。
 だから、良い気分を大切にするし、悪い気分の時間を減らそうと思う。

 イヤなことは、聞かないし、見ないし、聞こえないし、見えない。われわれは全てを見ていないし、全てを聞いていない。全てを感じていないし、全てを理解できない。私たちの感じること、想うこと、理解することはほんの一部分なのだ。そして、多くの部分を想像や思惑や、気分で補う。まことに勝手気ままに脳は物事を決めつけて、判断する。

 悪口も同姓同名へのものなら気にならないし、理解できない言葉なら怒れない。聞こえないところで誰が何を言おうと、その事実があるのか無いのか判らなくて、怒ったり泣いたりはつじつまが合わない。すなわち、泣きたい、怒りたい、気分を害したい、そう言った楽しみがあるのではないかと想う。好きこのんで被害者になりたがっている、そんな風に感じる。

 現実と仮想の区別が付けば、仮想なんて怖くない。仮想で傷つくことが何か変だ。あなたへの罵詈雑言は、夢か現実か、判断するのはあなたの脳。どちらでもかまわない。聞きたければ聞こえるし、聞きたくないものは聞こえない。それが現実か仮想かは誰にも判らないし、どちらでも大して変わりはない。
たぶん、あなたが好きな方が真実なのだろう。誰がなんと言おうと、あなたが決めてしまえばそれが真実になる。
 そして、それは、個人個人が勝手に決めていてそれらは集まって思惑となり、世間を動かす。

他人との理解なんて、,,

 他人への理解よりも自分の内側の理解に目を向けたら?と思う。
 あの人は何故怒るのだろうか、あの人は何故非常識なのだろうか、あの人は何故、あの人は変、非常識、普通じゃない、、、、
 何故人は、他人と理解し合えると思うのだろうか。他人と自分が同じ基準上にあると思い込むのだろうか。なぜ、同じ立場という前提で物事をとらえるのだろうか。わかり合えない、通じ合えない、理解できない、測りかねない、それが本当だと思うのだがいかがだろうか。
 周りを見回す。何人か思い浮かべたその中で、あなたと同じ趣味を持ち、同じ本を読み、同じ番組を見て、同じ音楽を聴き、同じ映画を見て、同じような行動を取れる人が何人いるだろうか。あるいは、隣人の本の趣味を見て、隣人の好きなどラマを聞いて、隣人の音楽ライブラリを見て、同じように楽しめるだろうか。そう言った人が周りにいるとして、そうではない人との割合はどのくらいだろうか。

 そういった事を検証していくと、隣人との理解はとても出来そうにないと思う。だから、規律を作り、法律を作り、モラルを作り、共通の認識を明確化して協同作業を行うとする。作業や活動はそれでいい。ただし、想いや感情、好き嫌い、イライラと明快さはそれでは解決着かない。
 理解し合えない部分は当たり前に、あなたを刺激する。あなたの内なる声は、だれかれ無く攻撃する。何故そう思うのか、なぜ気分が変わるのか、自分の中への問い合わせは、受付れくれない。まあ、攻撃することの快感があるからなのだろう。
 
 理解無しに、うまくやっていければそれでいい。

2008年6月6日金曜日

私の思う多様性、,

 生き物の多様性とは、私の持つ認識は、”どんなところにも生息する。”という概念。ある生き物が居なくなっても別の生き物がすぐそこで増える。生き物の総量は変わらない。環境が変わっても、組み合わせが替わっても、そこに生き物は育ち、増えて、生態系というシステムを作り上げていく。それはちょうど、穴の空いたところを繕うようなもの。DNAはどこにでもいる、それが、”生き物の多様性”だとおもう。
 DNAは、あらゆる機会を得て、多様に変貌しようとしている。いろいろな条件下でDNAが破壊されることなく、途切れることなく、時間を乗り越えていく。そう言った試行錯誤を繰り返している。地下に、水に、空に、宇宙に、他の星に。
 ただし、1種だけでそれを行うとはしていない。いろいろな生き物がそれを支えている。それが、系、と呼ばれるもの。一連の連携によって、いつでもどこでも、何かしらのDNAが、時の試練を乗り越える。DNAは、いつでも分化し、増えることが出来る。雑多な種が、いつでも自分の出番を待っている。いつでもDNAを次の時へ運び出す用意が出来ている。それが多様性。

 種は入れ替わっていいし、絶滅してもいい。それはたいしたことではない。いつでもやり直せるし、誰もが新しい世代を生み出せる。たった一つの種がいれば、DNAはまた、次の多様性を復元できる。氷河期のように、あたらしい生き物の次代を生み出せる。

 たった一つの種が、妄想に乗じて思い悩むことではないのだ。