2008年5月24日土曜日

音楽はなぜ気持ちいい?

 音楽は不思議だ。誰もが聞きたがり、誰もが唄いたがる。それは興奮とエクスタシーを盛り上げて、意識を忘れさせる。音楽は音の連なり。音は空気の振動。空気の圧力差が鼓膜を経てカタツムリ管を振るわす。カタツムリ管の中はリンパ液で満たされいて、液の動きは底に張り付く何千もの絨毛神経を刺激する。複数の絨毛神経はそれぞれ異なる周波数を感知する。だから音を聞き分けたり、和音を感じたり出来るのだろう。聴覚神経から信号は脳へ。さまざまな関数へ渡されて処理され、結果として心地よさを産み出す。


 音には、共鳴、共振、うなりなどいろいろな合成、分波がある。異なった周波数の波がさまざまな形を造る。音楽には、音色、音程(ハーモニー)、リズム、の三要素と音圧(音の大小)がある。

 和音、ハーモニーは、複数の音、周波数の織りなす技で、共鳴、共振に通じる。音階の規則はここから生まれたという。ゆりかごのように、定まった幅を持つ者は心地良く感じる仕組みなのだろう。

 音色は、波形。音色は元となる音源の性質を表す。楽器の種類、音を出す動物の種。大きな発声機関(声帯)は低い音で、小さな発声機関(声帯)からは高い音が出る。これは発声元を識別できるだろう。

 リズムは、心地よさの最も要だと考えている。時間を漂う者はすべて自分のリズムを持っている。鼓動であったり、信号伝達の速度であったり、応答間隔であったり、さまざまな時間の刻みを繰り返している。リズムは、一定の速度、一定の刻み幅であることで定義できる。過去から何度か繰り返されたそれは、現在を経て未来も同じリズムを刻むと予想された時、われわれは安心を感じるのでは無かろうか。変わらないリズムは、かわらない状態のしらべ。

 今の状況が変わらないということは、周囲のリズムが乱れないことを意味する。このリズムを憶えていて、繰り返される限りは、その原因も、その先への注意も払う必要がない。すでに知っているリズムである限り、すでに知っていることしか起こらない。新しい不安に神経をすり減らす必要がない。それは安息と休息につながる。



 新しくきいたばかりの音楽と、聞き慣れた音楽。その違いは明らかだ。おもしろくもなくてイライラしながら聞いた音楽が幾度も繰り返されると、やがて心地良い音楽に変わる。そして記憶に深く刻み込まれて、その音楽は休息と安心の合図となる。その音楽のその先をすでに知っているから、安心なのだ。脳は知っている音程をなぞっている。記憶の中との整合が続く限り、周囲の平穏が確保される。膨大なオーケストラの長時間の演奏の中でも、間違った音程はすぐに気がつく。そして、リズムが途切れた時は即座に警戒と新たな行動を準備しなくてはならない。



 物事に集中したい時、自らの内部と応答したい時には、聞き慣れた音楽と聞き慣れた食べ物でコトに向かう。聴覚、嗅覚はいつも開かれた感覚器だ。外部のさまざまな変化を常時監視している。それを遮断しないと思考へのエネルギーの集中投与は図れない。だから、音楽を鳴らし、コーヒーの香の中で時に、柿の種をほおばり、時計を遠ざける。

2008年5月22日木曜日

頭のツールボックス

 進化というのは段階的に起こる。だから、ヒトの持つ機能のほんの少し前を、どこかの種が持っている。どの種の間でも階段の段差は類似していて、ヒトの直前だけ大きな段差が出来ているわけではない。人は特別な生物ではないのだ。

 ヒトは、数字を操り、物理を理解し、幾何や積分、論理の組立を行う。それをヒトだけの持つ特異な能力と考えるのは、いささか自慢が過ぎると言えないだろうか。進化のなだらかな連続見ると、系統樹の近い多くの生物が数字や物理、統計学を理解するのではないかと思う。むしろ、力学や電気、光の法則を我々だけが長い時間掛けてじっと熟考の末、発見した、と言う方が不思議なことなのだ。理解とは何なのか?新しい能力の取得とは何なのか。それは本当に新しい発見なのだろうか?ヒトのハードウエアは、なんら改良されてはいない。その仕組みは年千年前と同じなのだ。

 パソコンのOSは、関数の集まりだ。さまざまな関数があらかじめ組み込まれており、プログラムはそれを組み合わせてさまざまな機能を実現する。それを、ツールボックス、またはAPI(アプリヶーションユーザーインターフェース)とよぶ。元々はそれぞれが小さな計算式に過ぎなかった。それらを集めて機能的に配置し今のOSは成り立っている。必要な道具はすでに揃っているのだ。それをどうやって呼び出して、どうやって使いこなすかがその能力を評価する。

 力学も、天文学も、積分も、幾何代数も、生き物の中に存在すると考える。みんなそれを知っていてそれを使っている、と言うのはどうだろう。光を見て、風を感じて、方向を決めて、意図した位置へ手足を移動する。このとき、力学や幾何の計算が必要にならないだろうか。2つの目に映る物の位相から距離を測り、空から駆け下りて逃げ惑う小動物のそのちょっと先へ鋭い爪を運ぶ。更に細かな筋肉の動きを指令する時に、どんな計算が必要なのだろうか。
 クモの巣の張り方、蜂の巣の作り方。卵を産み付ける葉をさがすモリアオガエル。飛び立とうとする時の水鳥、呼吸のタイミングを見る海の哺乳類。少なくとも我々が彼らをシミュレートするには、そう言った計算式の組み込みなくしては計れない。

 つまり、意識するかしないかは、採り上げる問題ではない。証明は出来なくてもいいのだ。何も知らないまま、関数を呼び出して返り値を信じて使えばいいだけのこと。紙に書いたり、説明しなくてもいいし、それを訴えられないから、そこに存在しないというのも、イメージの貧困だ。じっさい、我々の感情や行動は、目的や意味、その出何処を知らないが、それを疑うこともなくそれに従っている。それはそう言うものなのだ。そう言う仕組みでいいのだ。
 犬も猫も、ネズミも、ハエやカエル、動物はすべからく法則集と関数計算機を持っている。そう考えると、ヒトが数式を理解できる、ということが不思議ではなくなる。膨大なライブラリーはすでにそこにあった。アクセスできる線がちょっとつながっただけのこと。偉大な多くの理論の発見は、脳の中のちょっとした小窓を覗いただけのこと。
 
 それに思い当たったきっかけは、サバン。自閉症の患者名の中に特異な能力を持つ者が少ない割合で現れる。彼らを、”サバン症候群”とよぶ。無限の記憶力、瞬時の計算、絶対音感や、景色の再描画、生まれながらの雑多な語学能力。われわれがとても取得し得ない驚異なその能力だが、彼らはそれを学んだのではない。欲したわけでも、関心を持ったものでもない。気がついたらそこにあったのだ。
 彼ら同様我々はそれを全く説明できないし、学ばせたり発展させたりもできない。それはただそこにあるだけの物。かれらは、我々の知らない脳のどこかが意識がつながっていて、それを言葉にし、我々に知らしめられる。複雑な計算もその過程を知らない。だけども使える。われわれだって、法則を知らなくても歩けるし、走れるし、物だって投げられる。一昔前の砲弾よりも我々の投てきの方がずっと命中精度がいい。宙を飛ぶボールだって受け止められる。鳩は投げつけられる石を簡単に避ける。それらはどれも、我々の言う物理法則に則った計算なしにはあり得ない。

 われわれは、何本か毛の少ないサルにすぎない。他の種から大きく離れた特異な生き物ではないのだ。そう思うと、たぶん、犬や猫にも意志があり、世界観があり、過去や未来がある。遠い親戚ではない。そうでなければ意思の疎通はあり得ない。同じ物を見、同じコトを感じている。

環境問題なんて、解決しない

 今日の環境問題解決へ、私は活動しない。解決は出来ないし、生物はそれが出来る仕組みになっていない。
 今日の環境問題の発端は、1つにつきる。人口増加だ。人口が増加しなければ、環境汚染は起こらない。そして人口増加の抑制とは、子供が生まれないこと、どんどん死ぬことを意味する。生き物はそれに抵抗するし、人はそれを絶対に受け入れない。だから、環境汚染は進むことはあっても、減ることはあり得ない、絶対に。それは、ヒトの存続にとって問題だが、それ以外には何ら問題とならない。
 ガイア理論のような、地球という一つの生き物の方向はどうやら、どんな形でもいいからDNAを存続させる、ということに見えてくる。1つの種が無くなろうと増えようとそれはたいした問題ではない。新陳代謝の1つに過ぎないのだろう。1つの場所が空けば、他の物がそこを使うだけ。意志は脈々と受け継がれる。
 さまざまな環境に応じて、さまざまな生き物を産み出してきた。これまであり得ない環境を作り出し、それに応じた生き物を産み出す。その繰り返しの中の1ページに、我々が今住んでいる。そう考えると、我々の環境問題は、必然的な過程とも考えられる。

 広がりすぎた。

 我々は仲間を見殺しに出来ないし、子供を諦められない。それは理屈でも計算でもない。抗うことの出来ない生き物の仕組みだ。人口問題や食糧不足の問題は、地球環境問題その物でどちらを優先するかで逆の方向を向くが、我々は一方しか選択しない。悲惨な人口増加の方が、地球環境保護よりは検討の余地無く重要なのだ。
 そして、身近な者達の10年後の生活の方が、遠くの国の10日後の生活の心配よりも明らかに重要だ。

2008年5月21日水曜日

mozic NetScape IE FireFox ハイパーテキスト


 ちょっと前に、ファイヤーフォックスの話をした。そう言えば、最初のHtmlブラウザってなんだっけな?と気になっていた。そうそう、モザイクだ。
 ハイパーテキストは、”ハイパーカード” から生まれた物じゃなかったのかな?ハイパーカードは、アップルマッキントッシュの優秀な、ユーザー用マクロ記述言語で、カードとテキストリンクから出来ていた。今で言う、ウィンドの切り替えがカードに当たり、ボタンや、リンク文字が、ハイパーテキストだった。

 ちなみに、HTML は、Hyper Text Makeup Language である。

 ハイパーテキストは、文字中に絵や図を組み込めるように発展されて、やがてインターネットブラウザとして、mosaic として世に出た。unix 用に続き、マッキントッシュ用がそうそうにばらまかれた。只だったね。
 インターネットは、文字情報の通信に限定したネットワークだ。それ故に汎用性と拡張性を維持できている。タグ、と呼ばれるキーワードを解釈するのは、それぞれのパソコンに組み込まれたブラウザで、送られるデータは、タグもワードも何ら区別されずに送られる。

 mosaic はやがて商用になり有料になって、NetscapeNavigater となった。安かったけどね。
 初期のMicrosoftInternetExproler は、NetscapeNavigaterの改良版として作られた。非力で遅くて、仕えなかった。ただし、只だった。しかし、IEは、windowsパソコンに標準となり、デスクトップとインターネットとの境を消していく。

 Netscape 社は、いつの間にやら、Mojila と名を変えた。いまは、FireFox を出している。
 ちなみに、今出回っているInternetBrowser は、以下である。
 IE FireFox Opera Maxthon Safari かな?

 以上

2008年5月20日火曜日

市場原理の崩壊

 市場原理はどうなってしまうのだろうか。
 ある人の思いは別の人に伝わり、また別の人に伝わる内に姿を変えるらしい。多くの人に信じられた世界観や方向性が、結局誰が何のために始めた物かを、説明できなくなってしまっている。

 お金はお金を貯めるだけのために行っている節がある。貯まったお金は、無くなるコトへの恐怖をどんどんと膨らませる。生きるためのさまざまな物を結ぶ、仮想媒体に過ぎなかったお金が、その元の品物の価値を勝手に変えていく。お金は、物と物とを交換する比率を示していたはずなのに、その物が消えてしまい、お金は仮想世界を勝手に膨らませていく。
 多量に収穫できる物は広く広まり、一般化する。希少な物は一部にとどまり小さなエリアで消化される。しかし、お金は、安いものをどんどん安くし、高い物に集まり益々値を上げる。それがヒトの生態なのだろうか。

 餓える人々でないと、飽食の人々を支えられない構造があって、その差額は芸能や、スポーツや、光るだけの物へ限りなく注ぎ込まれる。それは、とどまることが無くますますと差が開く。それ進歩と賞しますますと薦めていく。となると、それはまさに生態というべきだろう。

人智慧にすぎない、、、、

 これはもちろん、猿知恵 のことである。ヒトは特異な生き物ではない。ゴリラとオランウータンの差と、チンパンジーとヒトの差とはおなじくらいなのだろう。ヒトがヒトを評価して、進化の頂点というわけで、行動そのもは、蝉や、犬や、象や、ニホンザルと、何ら変わることがない。

 生態学やDNA分子生物学は、サルとヒトとの違い、ヒトとハエとの違いをたいした物とは見ていない。表に見える表現や行動こそ違え、その目的とする物、その優先順位、結果として得る物は同じ物なのだ。つまり、DNAを何処まで広げるか。DNAが生き延びる可能性を何処まで高められるかという命題に、ヒトもカエルも同じように目指している。
 自分に一番適した環境に変え、多くの子を産む。それだけのこと。最優先順位は子供を生むことで、ヒトも他の生き物もそれに一番エネルギーと時間を費やしている。生死を賭け、最大の快楽と、最大の苦悩とがそこに与えられている。
 大脳はさまざまな想像世界を作り、時間を過ごしていくが、”子供を産むことが最大の目的、”にたいし、疑問も持つことはない。例え誰かの大脳がそれに理論的な誤まちを見つけても、それに抵抗するいことはない。永遠に増えることがあり得なく、増加の先は破滅だと、私たちの脳は理解できる。循環とは、増えもしないし減りもしない。うまく調整制御することが循環、すなわち果てしなく長い存続の方法だと判るが、それをすることはあり得ない。生き物は、果てしなく子を増やし、環境を更新し、そして滅んでいく。当たらし環境に新しい種が迎えられる。それは、かつてのは虫類や、さまざまな種が出来なかったように、ヒトにもそれは出来ない。他の種と同じ行動が脈々と受け継がれている。

 我々は、我々をコントロールできない。生態系の何に対しても制御も影響も与えられない。なぜなら、我々はそこで踊る演者であって、演出家ではないからだ。

2008年5月3日土曜日

物価は上がってもいい

 周りには安価な食材があふれている。ほとんどが輸入品。安価、輸入品、そのわけをちょっと考えてみる。国産では価格的に太刀打ちできない。コスト競争に負ける。輸入材はコストが安い。人件費が安い。この人件費ってなんだろう。たぶん生活に必要とされる費用だと思う。それが安い。
 われわれに食材を提供してくれる彼らの一部は、車を持たない。テレビを持たない。TVゲームもなく、携帯電話も持たない。ましてや安全や、健康、衛生もない。”その分コストが安い”、という構図にならないだろうか。これを搾取と呼べないのだろうか。彼らがわれわれの生活に近づけば、そうでない調達先を探す、そういった戦略だと聞いている。それがわれわれを支えている。
 かたや、野球とはいえ、サッカーとはいえ、芸能、ミュージシャンとはいえ、人気で年に何億も支払われるのは、また、ブランド品、美容、装飾、が産業の上位に来る。これを狂乱とみるのは、おかしなことだろうか。それを当たり前としているわれわれは、なんなのだろう。

 物を作る人が、それを提供してモノつくりを続けていかれない状況と、片やはるかに切り詰めた生活から生まれる安価な品が生活基盤を支える。食のわずかな値上がりに声を上げ、バーゲンでブランド品をあさる。
 安全や食料や健康よりも、便利さや安さ市場原理が優先される状況は、そこから一歩離れてみれば不可思議な状況だ。続くものではないだろう。

 格差はエネルギーを生む。これは物理法則。蓄積されあふれるエネルギーは容器を破壊する。