2008年10月10日金曜日

愛は、生きとし生けるものから、受け継いだもの

唐突だが、うちにはかつて猫がいた。迷い猫だ。良くある経過でミルクをやっていたら居着いた。その猫は大変賢い猫だった。いろいろなことを学び、懐かしく思い出す。

よく私の部屋を訪ね、布団に潜り込んできた。ドアをカリカリと叩く。屋根に続く窓をたたく。それを合図に私は窓を開けてやる。私は寝て、猫はしばらく毛繕いをする。猫は眠くなると私の頬を軽くつつく、爪は立てない。私は布団の端を上げてやり、猫は脇へ潜り込んでくる。そこに、合図とお約束ができる。それは双方が応じないと意味をなさないものだから、猫も私もおなじように学習したのだ。どちらが賢いかを問うのは愚問だ。

その猫が庭で寝転んでいる。そばを子猫が通りかかる。うちの猫を見て子猫が威嚇を始める。背を丸め、尾を立て、”フー”っとうなる。しかし、うちの猫はそれをちらりと見ると、無視して毛繕いを始めた。子猫はそのままうなっている。相手が子供で脅威のないことを承知している。それは落ち着いた態度だ。相手が犬だと、こうはいかない。

妹に子供が生まれて実家たる我が家へ帰ってきた。我が家の猫が心配だ。産まれたばかりの子が引っかかれやしないかと心配した。しかし、猫だろうと大人は大人。子供と大人を見分けるのだ。ちゃんと遠回りをして歩くし、決してちょっかいを出しには行かない。遊びたい時は私の所へ来るのだ。やがて赤ん坊は自我に目覚め、手や足を使い出す。時々母を訪ねて妹が子連れで家へくる。赤ん坊は猫とおもちゃの区別が付かないから、尾を掴み、頭を掴み、背中を掴む。しかし、その猫は決して噛んだり引っ掻いたりしないのだ。静かに逃げ回るだけだ。研究熱心な私は、同じ事をしてみる。すぐさま反撃にあい、最初は爪、しつこく続けると手で抱えてかみつき、脚で引っ掻くという高等技で私の手を血まみれにする。しかし、八百長試合に似て、大けがはしない。跡はしばらく残るが。

猫と飼い主たる私の間には、さまざまなルールと合図ができ、しばしの時を一緒に過ごす。理解とは、同居には欠かせない大切な技術だ。そう言った普遍的な適応に霊長類だけが突然持ち得た、と考えるのは手前味噌も甚だしい。大昔に得た物が遺伝によって伝えられている、と考えるべきで、人の専売特許など、何一つ無い、と答えた方が高得点だろう。

ましてや、愛と芸術などは、有性になった途端現れたとすれば、算術のごとく理路整然ではないか。めでることは、全てが愛に通じ、ほとんどの生き物に通じる。愛情や芸術は生き物の専売であって、人の文明の産物ではない。アートやセックスはゴキブリも鮎も、カニやオットセイも平等に大切な物、賛美される物なのだ。

霊長類たる分別のある生き物は、厳かに慎ましく、生物界に感嘆するべきと思う。

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