2008年5月22日木曜日

頭のツールボックス

 進化というのは段階的に起こる。だから、ヒトの持つ機能のほんの少し前を、どこかの種が持っている。どの種の間でも階段の段差は類似していて、ヒトの直前だけ大きな段差が出来ているわけではない。人は特別な生物ではないのだ。

 ヒトは、数字を操り、物理を理解し、幾何や積分、論理の組立を行う。それをヒトだけの持つ特異な能力と考えるのは、いささか自慢が過ぎると言えないだろうか。進化のなだらかな連続見ると、系統樹の近い多くの生物が数字や物理、統計学を理解するのではないかと思う。むしろ、力学や電気、光の法則を我々だけが長い時間掛けてじっと熟考の末、発見した、と言う方が不思議なことなのだ。理解とは何なのか?新しい能力の取得とは何なのか。それは本当に新しい発見なのだろうか?ヒトのハードウエアは、なんら改良されてはいない。その仕組みは年千年前と同じなのだ。

 パソコンのOSは、関数の集まりだ。さまざまな関数があらかじめ組み込まれており、プログラムはそれを組み合わせてさまざまな機能を実現する。それを、ツールボックス、またはAPI(アプリヶーションユーザーインターフェース)とよぶ。元々はそれぞれが小さな計算式に過ぎなかった。それらを集めて機能的に配置し今のOSは成り立っている。必要な道具はすでに揃っているのだ。それをどうやって呼び出して、どうやって使いこなすかがその能力を評価する。

 力学も、天文学も、積分も、幾何代数も、生き物の中に存在すると考える。みんなそれを知っていてそれを使っている、と言うのはどうだろう。光を見て、風を感じて、方向を決めて、意図した位置へ手足を移動する。このとき、力学や幾何の計算が必要にならないだろうか。2つの目に映る物の位相から距離を測り、空から駆け下りて逃げ惑う小動物のそのちょっと先へ鋭い爪を運ぶ。更に細かな筋肉の動きを指令する時に、どんな計算が必要なのだろうか。
 クモの巣の張り方、蜂の巣の作り方。卵を産み付ける葉をさがすモリアオガエル。飛び立とうとする時の水鳥、呼吸のタイミングを見る海の哺乳類。少なくとも我々が彼らをシミュレートするには、そう言った計算式の組み込みなくしては計れない。

 つまり、意識するかしないかは、採り上げる問題ではない。証明は出来なくてもいいのだ。何も知らないまま、関数を呼び出して返り値を信じて使えばいいだけのこと。紙に書いたり、説明しなくてもいいし、それを訴えられないから、そこに存在しないというのも、イメージの貧困だ。じっさい、我々の感情や行動は、目的や意味、その出何処を知らないが、それを疑うこともなくそれに従っている。それはそう言うものなのだ。そう言う仕組みでいいのだ。
 犬も猫も、ネズミも、ハエやカエル、動物はすべからく法則集と関数計算機を持っている。そう考えると、ヒトが数式を理解できる、ということが不思議ではなくなる。膨大なライブラリーはすでにそこにあった。アクセスできる線がちょっとつながっただけのこと。偉大な多くの理論の発見は、脳の中のちょっとした小窓を覗いただけのこと。
 
 それに思い当たったきっかけは、サバン。自閉症の患者名の中に特異な能力を持つ者が少ない割合で現れる。彼らを、”サバン症候群”とよぶ。無限の記憶力、瞬時の計算、絶対音感や、景色の再描画、生まれながらの雑多な語学能力。われわれがとても取得し得ない驚異なその能力だが、彼らはそれを学んだのではない。欲したわけでも、関心を持ったものでもない。気がついたらそこにあったのだ。
 彼ら同様我々はそれを全く説明できないし、学ばせたり発展させたりもできない。それはただそこにあるだけの物。かれらは、我々の知らない脳のどこかが意識がつながっていて、それを言葉にし、我々に知らしめられる。複雑な計算もその過程を知らない。だけども使える。われわれだって、法則を知らなくても歩けるし、走れるし、物だって投げられる。一昔前の砲弾よりも我々の投てきの方がずっと命中精度がいい。宙を飛ぶボールだって受け止められる。鳩は投げつけられる石を簡単に避ける。それらはどれも、我々の言う物理法則に則った計算なしにはあり得ない。

 われわれは、何本か毛の少ないサルにすぎない。他の種から大きく離れた特異な生き物ではないのだ。そう思うと、たぶん、犬や猫にも意志があり、世界観があり、過去や未来がある。遠い親戚ではない。そうでなければ意思の疎通はあり得ない。同じ物を見、同じコトを感じている。

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