2008年11月14日金曜日

間違ったことを言う かまわないと思う

歴史的事実と異なったことを言う。真実じゃないことを言う。ウソを言う。まあ、作為的な物はともかく。こういった物と言論の自由とは、どのような拮抗関係にあるのだろうか。私流には、何を言ってもかまわない。真実でなかろうが、誤った解釈であろうが、誤解を招こうが、作り事だろうが、それは言葉に出してかまわないことだと思う。言論の自由を支持する。

それはつまり、まず、言葉とはそれほどあいまいな物で、無責任な過不足のある情報だと思う。誰もがそれほど熟考して、論理的組立の上で話しているわけではないのだ。それが書き物だとしても。言葉とはキャッチボールに例えられるが、投げ手と受け手のどちらもが動かなければキャッチボールは成立しない。どちらも調整し、補正し、相手を思ん計ってやりとりをする。そのばそのばで言い方が違ったり、思惑が違ったり、うまく伝えられなかったり、集中できなかったりは良くあることだ。

つぎに、信じたことが真実、という考え方。万人共通の真理など無いのだ。一人一人が信じたものがその人の真理。別の人の真理ではない。誰かの主張を他の人は否定するし、議論をしても埋まることはあり得ない。さらには、脳は勝手に世界を造るのだ。”人は見たい物しか見ない”というのは生き物の構造的なもの。人によって見える物が違うし、見た形が違う。ある人は登り坂と言い、ある人は下り坂という。別な人は平らだという。” それは真理かも知れない(!??)。それを許せないと言う人は、単にそう言った世界観を個人として持っている、にすぎない。うまく避けながら、ぶつからなければ、それで平和が保てるのだ。

真実や、歴史的事実しか言ってはいけない、と言うことなら、未来のことは語れないし、金融商品など使えない。ましてや、宗教などまっさきにやり玉に挙がってしかるべき。だから宗教弾圧が起きるのだ。自分たちが信じるからそれは真実、それ以外は虚偽だ、という事柄を、世界のほとんどの人は否定しないだろう。全く同じ構造の生き物が、わずか前までは進化論を否定し、人種を別種と思い、魔女狩りを行い、想像上の財の増減に振り回されているのだ。

事実や真実についての論争自体、実は筋書きのある茶番劇のように、企みの意図に使われるのだ。

2008年11月9日日曜日

ワタシノシクミ 浮浪者?

私は今、ぼーっとしながら、生活ができている。なんとかちっちゃな仕事をもらってやっている。これで、仕事がなかったら、ホームレスだなあと思う。ホームレスには、意外としっくりと移行できそうな気がする。というか、才能がある?

他人の目が気にならない。他人の評価が気にならない。噂も悪口も誤解もどーでもいい。他人の評価などいい加減なのだ。

”あのときかなり怒ってたでしょう?”と、時々言われる。そんなに機嫌の悪いことはないのだ。”イヤな雰囲気でしたね、”それもちがう。つまり私は空気が読めないのだ、だから、読まない。何も感じていない。しかし、他人は勝手にこちらの気持ちを思い計ってくれる。”あなたの気持ちよーく判ります。” と言う奴も多い。そんなことはないのだ。判るはずがない。わかっているなら、そんなことを聞くな。そんな台詞は不要なのだ。その言葉から、私はあなたの気持ちをやっと悟る。

つまり、その時の一人の私を見て、多くの人がそれぞれ私の気持ちを察してくれるのだ。そしてその評価はバラバラなのだ。ある人はご機嫌だったといい、ある人は怒っていたという。ある人は苦痛そうだと言い、またある人はのんきそうでしたねと言う。私は想う、”あなた色の私です。” あんたの中の私に、とてもつきあっていられない。そんなヒマ人ではない。あげくのはて、”そんな人だとは思わなかった。”、”あなた、変わったね”、”意外な一面を見たわ。” 、ちょっと待った!ます。あんたの言う私を説明してもらわないと、話が返せない。だれかれの前で、あれこれ演じ分けるのは大変なのだ。

だから結局、”お好きなように、どうぞ。”となる。これは懸命なことだと自画自賛するのだが、いかがだろうか。

あなたが怒っているあなたは、私ではないし、あなたが苦痛に思う私は、私ではない。あなたの嫌う私を、私は大好きなのだ。まあ、困った自分だと思うことは、まま、多いけど。

だから、なぜそんなあやふやな他人の評価に、誰もが振り回されるのだろう。そんなことで、なぜ争いになるのだろう。つまり、人は争いが好きなのだ。相手をやっつけることが好きなのだ。いちゃもんを付ける習性があるのだ。生き物とはそうぢたものだ、と結論付けても間違ってはいないと思う。だから私は異端で、貴重なDNAで、やがて消えゆく運命の生命体なのだ。大切にしよう。

不安の存在 マイケル=クライトン

マイケルクライトン氏が死去した。よく読んだのです。中でも、環境問題に関して、”恐怖の存在”は、議論を醸した。私はこのタイトルを、”不安の存在”と、直したい。内容から見て、環境問題だから恐れおののくほどのテーマではないと思う。

私に残った印象は、”不安は金になる”と言う言葉。私流にいいかえて、”不安はコストを増す”。不安が増す度、その解消に莫大なお金が必要になる。現実にはなく、ただ、将来起こるかも知れないあれこれに対して、お金がどんどん吸い上げられる。

私たちの、世界トップ水準の高い生活維持コストは、いったい何処へ消えるのだろう。かなり効率的に仕事をこなし、生産効率が高く、安くて良い品をはき出しているのに、競争に勝てない。高収入が得られない、豊かな生活になれない。また一方、貧乏人がお金を欲しがるのは判る。しかしお金持ちがまだまだ、限りなくお金を欲しがるのはなぜだろう。贅沢に走らせる欲求とは何か、と考えると、”不安解消のためのコスト”と、思いつく。あれも不安、これも不安、やがて来るかも知れない不安の一つ一つに対処するために、お金は惜しげもなくつぎ込まれる。欲望とは、不安解消のためのモノ、とも言えそうだ。

食の安全を未然に防ぐ、万一の事故のための安全装置、10年後の訴訟賠償費用。たとえば、平均寿命が50年ならば、50までの不安でいい。10年に1回の災害は、10回耐えればいい。戦争や貧困の国では、.1週間先の不安だけ心配すればいい、それ以上は贅沢だったりする。しかし、今われわれは、遙か遠くの未来の不安まで対処しようとしている。通過する未来は1つなのに、来るかも知れない可能性は無限だ。人の豊かな想像力は、無限の不安を創造する。不安解消のためのコストは、無限に広がる。そこに経済がある。

2008年10月28日火曜日

恥って なんだろう?

「恥を知りなさい」「恥ずかしいと思わないの」「恥を欠かせないで」「私が恥ずかしいじゃない」「恥の上塗り」 。恥ってなんだろう。恥ずかしと思っていない人に向かって、「恥ずかしいとおもわないの?恥を知りなさい」は、変だと思う。糠に釘、暖簾に腕押し、と言う具合だよね。わたしは、「恥」がよく判らない。

「恥ずかしい」、とは、弱点を知られることを指すのではないのかな。弱みにつけ込まれて攻撃されることを避けるために、「恥を隠す」、のだと思う。恥を隠したり、恥を感じたり、恥を恐れたりするのは、恥じる本人であって、他人にとっては何ら関わり合いのないことだと思う。恥を感じていない人に、「恥じなさい」というのは、単に、八つ当たり、その人の中でイライラの感情を処理しきれないだけのことと思うのだが。

「恥ずかしいと思わないの?」は、相手の立場になって考えた時に出る言葉だ。「私だったら恥ずかしいわ。」と、対になる言葉である。感情移入、人格移動、視点切り替え、まあ、そんなところか。言った方の感情であって、言われた方は、何を言われているか判らない。「そんなものなのかなあ」程度である。「相手の立場になる」ということは、「相手の場所に単に自分を立たせること」、にすぎない。そこには相手はいなくて、二人の自分だけである。自分同士見合って「そうだよねえ」と自賛すればよいのである。まあ、それが言う側の目的なのだが。自分の考え方、自分の感じ方を、腹いせ紛れに語っているだけで、相手は消えてしまっている。だって、くどいがそもそも、相手は「恥ずかしくない」「恥と思っていない」のだから、「私だったら、、、」などという愚行はとりあいたくもない。

恥はまた、「これを恥にしよう」といった文化的な取り決めでもある。武士の恥と商人の恥は違う。貴族の恥と貧民の恥は違う。ただ、強弱関係で恥が存在することは間違いなさそうだ。生態学的には、相手を威嚇して、争いを回避できないできない時に、「恥を感じる」ことになる。「弱いと思われることが恥」なのは、文化に関わりなく共通のようだ。

2008年10月27日月曜日

新しい病は、長寿と共に、、、

"アルツハイマー”は、新しい病気だ。少なくとも一九世紀にはなかった。もっとも、検査や確認の方法が無かったので、特定できなかったこともある。遺伝性の物は当然あったことと思う。;

最近読んだ本の冒頭に出てきた。”アルツハイマー”、老人性認知症、ちょっとまえまで痴呆症と呼んでいた。この病の発病が、60才以上でほとんどを占めることから見て、長寿が故に現れた病と言えるだろう、と書いている。

長寿は、長生きは、命は、何処まで大切なのだろう。生きることと増えることは違う。私の持論は、生き物は増える物、と言うこと。数を増やすことが使命だと思う。そして、長寿は使命じゃないと思う。長寿が故にバランスが崩れて要ることがたくさんある。新陳代謝があって、健全さが保たれる。;入れ替わりのないことは、危険なことなのだと思う。;

年寄りか子供か。エネルギー投資と未来への期待を、考えなければならない時が、きっとくる。同じ時代に同じ時を生きるために、どのくらいのエネルギーを費やすのか。それを比べて未来を見据えないといけない。人口増加と食糧難。貧困格差と憎悪の増大。無知からの悲劇と感性の支配。”ゆたかさ”への麻薬的な従属。誰を守り、誰を駆逐すべきか。善と悪、必要と不要を新しい道徳観で判断しなければならない時が、そこまで来ている。

2008年10月23日木曜日

ラクゴの楽しみ らくだ

らくだ タイトルだけで話を想像する。しかし、この場合は全く意味がない。意味ありげなタイトルは話に全く関連がない。しいていえば、隣近所になじまない異質なものを、不意義な動物に例えて”らくだ”という呼び名が付いた、のかな?動物は出てこないし、異国の話でもない。

”らくだ”と呼ばれる男が死んだ。そこへ兄弟分の男が偶然尋ねてきて、見つける。葬儀を出してやろうとするところへ、辺りの事情を知った紙くず屋がそこに通りかかり、二人で葬儀の段取りをする。”らくだ”と呼ばれた男は乱暴者でむちゃくちゃ、嫌われ者で、近所の誰もがその死を喜こび、安堵した。葬儀などとんでもない、と言う隣人に対し、兄弟分の男が嫌がらせをしながら、”つべこべ抜かす奴には、死人を連れてきてカンカン踊りをさせましょう、と言ってこい。”、と言う具合に葬儀の準備が進んでいく。

やることは乱暴でも、死んだ男の葬儀をするのだから、筋の通った行いではある。

ここの一つのキーである、”死人のカンカン踊り”のくだりは、ちょっと昔の映画でよく使われた。私は映画で先に知った。いろんな作品で出てくるので有名な逸話だと思っていた。これが出展と知ったのはこれを聞いてからだ。邦画で言うと、エノケンの法界坊(だとおもう)、ハナ肇の”バカシリーズ”、渥美清の無法松の一生みたいな話(題は忘れた。)伴淳三郎もやってかな?

この演目は関西でも東京でも多くの演者がやっている。タイトルも同じ"らくだ”。筋もアレンジは無いようだ。結構長い話だけど、きちんとした物語になっているからオチだけではなく、それぞれの登場人物のやりとりなど話全体を通して楽しめる。いろいろな演者を聞き比べて楽しめる演目である。

ラクゴの楽しみ 千両ミカン

おもしろくないから流行らない、という枕を聞いたこともある。結構いろいろな人が演じているが、難しいらしく、どうもあまりわっと沸かない。

そもそもの出だしにも無理がある。庄屋の大事な息子が病で倒れた。原因を探ってみると、”ミカンが食べたい。ミカンを食べないとあと数日の命だ”という。庄屋の親父は、”金に糸目は付けぬ、ミカンを探してこい。”と。その指図を受け、番頭がミカンを探しに行く。時期は6月、真夏にミカンを探す。今の我々にはピンと来ないが、ミカンは冬の物。冷蔵保存手段のない時代には、夏にミカンなど、とんでもない。そのミカンを探して奔走するお店の番頭さん。東奔西走の果て、ミカンの問屋でやっとミカンに巡り会うが。ここから話が盛り上がります。

このオチはあまり期待しない。というのも、オチは誰がやってもあまりアレンジしないようだ。時々時代的に理解できないオチはわかり安く言い替えることがあっても、オチの筋を替えることは聞いたことがない。誰がやっても同じオチなので、誰がおもしろいという物ではない。ちょっと心許ないオチで、なんだかその先にまだ話があったものを、キリのいいところで打ち切って演目とした、というような感じもする。

聞き所は、ミカンを探すところ、千両の値が付くまでの番頭と問屋の主人のやりとり。この辺りは工夫のしどころで演者によって違う。番頭にポイントを置くのか、問屋の主人を持ち上げるのか。オチに向けて振る人もいる。どこを延ばして、どこで持ち上げて引っ張り、どこで落とすか、知恵の絞りところ。

いろいろの演者で聞いてみたい話の一つです。

2008年10月18日土曜日

「日本賞」教育番組国際コンクール 10/22~28

http://www.nhk.or.jp/jp-prize/index_j.html

教育番組のコンクールである、日本賞 エントリーと審査が始まる。これを毎年楽しみにしている。この一年間世界で放映された教育番組、ドキュメンタリーの中から優秀番組がエントリーされて、テレビ放映されるのだ。

コンクールのおもしろさは、テーマもさることながら、写し方、取り上げ方、構成の仕方にそれぞれのお国柄、工夫があって感心することがおおい。同じテーマを異なった環境の国で、異なった基準で、異なった観点から捕らえると、問題点がどこにあって、どうすればいいかなども、自分がこれまで持っていた基準と異なってしまう。我々の評価基準こそが、問題の原因だったりして、解決すべき問題だと思っていたのが、そのままの方が正解だったりする。

もっとも、正解なんて物はなくて、どっちへ転んでも不満だらけと言うことは、まま多い。結局は、関わる人たち自信の満足度で評価が決まる、のではないだろうか。

審査を終えて、今度の土日は、終日放映されることだろう。万全の体制で録画に挑まないと。

2008年10月10日金曜日

愛は、生きとし生けるものから、受け継いだもの

唐突だが、うちにはかつて猫がいた。迷い猫だ。良くある経過でミルクをやっていたら居着いた。その猫は大変賢い猫だった。いろいろなことを学び、懐かしく思い出す。

よく私の部屋を訪ね、布団に潜り込んできた。ドアをカリカリと叩く。屋根に続く窓をたたく。それを合図に私は窓を開けてやる。私は寝て、猫はしばらく毛繕いをする。猫は眠くなると私の頬を軽くつつく、爪は立てない。私は布団の端を上げてやり、猫は脇へ潜り込んでくる。そこに、合図とお約束ができる。それは双方が応じないと意味をなさないものだから、猫も私もおなじように学習したのだ。どちらが賢いかを問うのは愚問だ。

その猫が庭で寝転んでいる。そばを子猫が通りかかる。うちの猫を見て子猫が威嚇を始める。背を丸め、尾を立て、”フー”っとうなる。しかし、うちの猫はそれをちらりと見ると、無視して毛繕いを始めた。子猫はそのままうなっている。相手が子供で脅威のないことを承知している。それは落ち着いた態度だ。相手が犬だと、こうはいかない。

妹に子供が生まれて実家たる我が家へ帰ってきた。我が家の猫が心配だ。産まれたばかりの子が引っかかれやしないかと心配した。しかし、猫だろうと大人は大人。子供と大人を見分けるのだ。ちゃんと遠回りをして歩くし、決してちょっかいを出しには行かない。遊びたい時は私の所へ来るのだ。やがて赤ん坊は自我に目覚め、手や足を使い出す。時々母を訪ねて妹が子連れで家へくる。赤ん坊は猫とおもちゃの区別が付かないから、尾を掴み、頭を掴み、背中を掴む。しかし、その猫は決して噛んだり引っ掻いたりしないのだ。静かに逃げ回るだけだ。研究熱心な私は、同じ事をしてみる。すぐさま反撃にあい、最初は爪、しつこく続けると手で抱えてかみつき、脚で引っ掻くという高等技で私の手を血まみれにする。しかし、八百長試合に似て、大けがはしない。跡はしばらく残るが。

猫と飼い主たる私の間には、さまざまなルールと合図ができ、しばしの時を一緒に過ごす。理解とは、同居には欠かせない大切な技術だ。そう言った普遍的な適応に霊長類だけが突然持ち得た、と考えるのは手前味噌も甚だしい。大昔に得た物が遺伝によって伝えられている、と考えるべきで、人の専売特許など、何一つ無い、と答えた方が高得点だろう。

ましてや、愛と芸術などは、有性になった途端現れたとすれば、算術のごとく理路整然ではないか。めでることは、全てが愛に通じ、ほとんどの生き物に通じる。愛情や芸術は生き物の専売であって、人の文明の産物ではない。アートやセックスはゴキブリも鮎も、カニやオットセイも平等に大切な物、賛美される物なのだ。

霊長類たる分別のある生き物は、厳かに慎ましく、生物界に感嘆するべきと思う。

2008年10月2日木曜日

ライフゲーム 生態系のシュミレーション

人生ゲームではない。生物集落(コロニー)の発展と消滅をパソコン上でシュミレートしたプログラムのことである。とは言っても味気ない物で、30年前のパソコンを懐かしんでみたりもする。パソコン画面上のドットを生き物に見立て、産まれ、群れ、膨張、分裂、拡散、を繰り返していく様をただ見ているだけの物。点滅1回は1世代を現す。行き続ける物、産まれる物、死滅する者が画面に図柄を描く。

関心のある方は、WikiPedia をご参照下さい。

http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win/game/sim/life/

もう少しイメージを説明する。方眼紙を広げる。そこにランダムにいくつかの点を打つ。点同志が接している部分もあり、単独の部分もある。そこに、ルールを適用する。考え方は、個体数密度が条件に合えば生きて、それ以外は死ぬという物。

1,空白セルに3つの生きているセルが接していれば、空白のセルが生きてくる(誕生)

2,生きているセルに、2つまたは3つの生きているセルが接していれば、次世代も生きる(生存)

3,上記以外では、次の世代に生きれない(死滅)

ゲームが始まると画面全体が点滅を始める。点滅1回が1世代で、1世代ごと上記ルールが適応されて模様が変わっていく。

さて、ここでは個体密度が生存を決める。はわかり安く言うと食料の分配率である。適度な密度で個体数は増え、コロニーは発展する。密度の維持とは、産まれる者と死ぬ者の調整である。調整は内部でのバランスだったり、外部からの来訪や、群れの分裂だったりする。少なくとも、どこかのコロニーがどんどん大きくなって、全体を支配すると言うことはない。無限の食料は無いのだ。

結局多くの場合、長い時間の果てに安定するのは小さなコロニーが点在する状態である。適度な距離で点在し、領域内で生産循環している。それはビオトープに見る環境である。拡大も繁栄もしない、しかし、消滅もしない。しかしそれは満足のいく状況だろうか。満たされた環境と言えるだろうか。

つまり、そこに暮らす者がどう考えて、何を目指すか、何を足るとするのかに掛かってくるようだ。次世代に欲の遺伝子はどの方向に誘導されるのだろう。

井上陽水のたのしみ

井上陽水の楽しみは、なんと言ってもその言葉だ。言葉のおもしろさとはそう言う物なんだなあと思う。リズムやメロディに沿って流れる、言葉の一つ一つの関わりが、巧みに絡み合う。それが、他のアーティストとは異なる彼の舞台だろう。意味があろうと無かろうと、何よりも言葉の意味と音とを踊らせる。言葉の持つ表の意味と裏の意味、読み方に誘われる同音異義語にも感心するのである。

音楽、ミュージック、歌、歌謡、ほとんどのテーマは、愛であり、異性であり、直接的にも間接的にも、比喩的にも、心からわき出る気持ちを何とか相手に伝えようとする手段でもある。訴える、叫ぶ、つぶやき、読みあげる、言葉で表せないその気持ちを、リズムやメロディに乗せて、すこしでもこの気持ちを付加したい。それでも伝えきれないもどかしさやイライラも、音楽の持つ魅力である。それはそれで打つ物はあるが、別の象限で陽水の唄は、言葉遊びに似た楽しみ方を教えてくれる。

時に古語の持つ穏やかな不思議な感触を風にのせ、また時には意味のない韻の連なりがパーカッションのごとく、軽い乗りを教えてくれる。和歌や短歌は詳しくないが、伝達手段が限られた頃の言葉の遊びは、このくらいに楽しかったんじゃないかと思わせる。歌を詠みあい交わし合う時、もちろん愛の言葉の交換がほとんどだったに違いないが、言葉遊びで相手を感嘆させる競い合いもあったのだろう。どこでもいつでも、遊び心は粋とされる物なのだ。

落語では船の旅などの暇つぶしに言葉遊びが語られる。”色と掛けて、桜の散った後と説く、こころは次に葉が続きます”。甚句、掛け詞、しゃれ言葉。意味と音が絡まり合って織りなす綾を、耳から入れて、頭でひねって、切り返して、解きほぐしていく。リズムとメロディが受け皿のようにそれを運ぶ。そう言った聴き方が独特で楽しい。

思いの外は生きること、思いのままは暮らすこと

時々はデパートで孤独な人のふりをして、満ち足りた人々の思いあがりを眺めてる

おそらく、その国で育った人にしか判らない楽しみ方だろうと思うし、世界中の人がそれぞれに、こういった自分たちだけの文化の遊びを持っていると思う。嬉しくもあり、悔しくもあり。

2008年10月1日水曜日

ワタシ ノ シクミ の1

私の特徴は、と言うと”こだわりのないこと”だとおもうのです。すべてのことが、”それがどーしたの?”と、言えてしまう。そこがちょっと緩んでいる部分だと思うのです。だから、回りは心配したり、イライラしたり、嘆いたりしますが、本人はそうは思っていない。本人がそう思っていないのに、回りがそう思うのは変だ、と思いませんか?"あんたのために言うんだけど”といったときの、”あんたのため”までは、解る。つづく、”~~~だと思うんだよ”の部分は、言っている人が思うんであって、言われている私の想った部分ではない。その辺りのギャップを感じつつ、時間の波を数えているのです。

”あれがほしい。これがしたい、あれがゆるせない、ここはゆずれない。” さまざまな動機で生き物は行動をする。それが、紛れもない事実だったり、正義だったり、使命だったりするけど、それは単に幻想にしか私には見えない。落ち着いて考えるとそうでなくては成らない理由や目的は、どこにもないし、許せなかったり、譲れなかったり、欲しい、好きだ、離したくない、は一人一人、一つ一つの脳の中でのことにちがいない。全てが個人的な一つの脳の中で完結する物語なのだ。つまりそれを”価値観”と言うが、だから価値観に根拠など無いのだ。誰もが勝手な価値観を持ち、その結果、抱きしめ合い、罵り合い、笑い合い、殴り合うのだ。寸分違わぬ同じ構造の、同じ種の、同じ時代の隣り合った席でも、価値観は自由奔放だ。誰もが勝手な根拠と理由を持っている。全ての人にとってそれが唯一正しい。

特に、あれが欲しい、手に入れたい、と言う欲望には、果てがないわけで、苦労して手に入れるとそれは満足の一言で消え、さて、"はい次の人、どうぞ”というごとく、次々と欲しくなり、イライラいするわけです。ある人には生き甲斐で、ある人にはとても疲れることなのです。

でも、やらなくちゃとか、悲しませたくないとか、逃げたくない、と言う気持ちには逆らえない。欠損していない部分では、それなりの欲仁対して、満足を求めているのです。

2008年9月19日金曜日

誰かをバカにしないではいられない、、、

ダニエルキイス

「アルジャーノンに花束を」は、名著である。最初に出した短編に比べ、あとで出した長編版は、筋はそのままにエピソードを深く彫り下げてある。

主人公チャーリーは知恵遅れで、何をするにも一人前にはできない。からかわれたり、バカにされたり、余計な仕事を押しつけられたり、失敗させられたりする。そのたび周りの人々(同僚)は沸き、騒ぎ、おもしろそうにするのだ。見かねた一部の人がそれをとがめるが、チャーリーはそれを自分の人気と思っている。愛されている実感をそこに感じている。

チャーリーは新薬の試験体に選ばれ、その作用によって知能が回復し、賢くなっていく。やがてみんなを追い越してしまう。すると、あんなに仲が良かった仲間がよそよそしくなった。チャーリー自身も自我に気づき、あれは人気や愛情での接し方ではなかったと気づく。そして自分の中に、自分より劣った者への軽蔑、階級分けが生じてくる。「なぜ彼らはこんな事も判らないのだろう!」。ますます賢くなるチャーリーは、回りの者をどんどん軽蔑し、愚弄するようになる。友達は減り、孤独を感じるようになる。

チャーリーはつぶやく。「知能が遅れていた頃は楽しかった。仲間も多くいたし孤独や惨めではなかった。誰かの態度に腹を立てたり、嫌いになることもなかった。」

チャーリーはやがて、知能を失い元のチャーリーにもどっていく。友達が戻ってきて彼に優しい声を掛ける。しかし、彼の孤独感だけは消えることがなかった。

2008年9月2日火曜日

生物がいない環境、を回避する

 これの前に、同じタイトルでブログを書いた。システムとは、いろいろな策を持って、様々な体験を取り込んで修復する仕組みを持つ。長い間存続するほどに、それは淘汰されて能力は高まっていく。

 外来種から既存種の生存権を守ろうとする運動がある。外来種のために生態系が変わってしまう、それを償おうとする動きがある。しかし、私的には、生態系はいつでもどこにもDNAがある、という目的に対して修復機能がはたらいていると思う。その環境に対して最も適した物が生き残る。そうでない物は駆逐される、という法則に乗って、外来種でも既存種でもどちらが残ってもいいんじゃないかと。だから、どこへ行っても同じ物がはびこる、と言うことにはならないのではないか。環境が変われば、最適者が変わる。変化した環境に応じた適格者が選択されて反映し、そこから次の順応体が現れる。柔軟で無駄のないシステムと思う。

 環境問題は大切だけど、”そこに生き物がいない”と言うことさえ避ければ、どんな生物がいようとかまわない、どんなものでも生き物がいればよい。”生き物がいない地域”を作ることは、避けなければならない。それはよほどのこと。

 疫病、バクテリア、病原体がどんな毒素を持っていても、それで生き物が絶えたことはない。それを回避する仕組みを生き物は持っている。だって、おなじDNA であり、同じ目的で生きているから。病気や毒素は、生態系をリセットしたり、調整する役目をしているのかも知れない。

 だから、ヒトも生態系に致命的なほどのダメージを与えられないだろう。そのまえに倒れるのは自分たちだから。環境や自然、他の生き物の心配をすることもないと言うことが、ここでの主旨かな。

福岡慎一郎 生物と無生物との間

 感想文かな?
 書籍 「福岡慎一郎 生物と無生物との間」 
ここには、生物の巧みな仕組み、数億年の進化の智慧が感じられる。この書物の結末を記してしまおう。それでも、この本はおもしろい。
 主人公は、消化液分泌機能を司る遺伝子を突き止めるために、その遺伝子の発現を抑制した実験用マウスを作ることになる。遺伝子は1匹の生き物を形作る全ての細胞に、同じ物が存在する。傷ついた物は修復されるか破棄される。体内の細胞はきちんと管理されている。全くおなじ遺伝子がその細胞の置かれた場所によって、発現したり、沈黙したりする。 試験体を作り、論文を書くためのデータを集めようとする時、1匹の生き物の全ての細胞からその機能を取り去らねばならない。また、それ以外の全ての機能について完璧に整っていなければならない。その遺伝子の削除によって、その機能のみが消えることを証明する、それが目的だ。
 そのためにはまず、その機能をもたない胚を作り、そこから1匹のマウスを成長させなければならない。そうやって全ての細胞にその遺伝子を持たないマウスが得られる。ちなみに、そうやってつくられた実験用マウスのことを、”ノックダウンマウス”という。

 結末である。”ノックダウンマス”は得られた、しかし、その遺伝子を持たないマウスは、何ら異常も見せず成長した。確かにその遺伝子は細胞内に見あたらない、発現していない。しかし、その個体は正常で、分泌にもなんら問題はない。
 感動の結末は以下である。つまり、生物の発生段階でその形質が有る、無いというスイッチ以外に、それをチェックし、迂回するシステムをもつということ。その代替機能、迂回方法を持ってているのだ。
 発生の始まったある段階で特定の遺伝子が働かないと、別の代替する機能が発現しそれを補足する。その障害が発現するのは、その遺伝子が有るけれど機能しない時、ある時期が過ぎてからその遺伝子が機能しなくなる、また、発生段階では正常でその後に損傷を受けると、障害が発現すると言うような仕組みらしい。 著者の行為は、この試験に当たってほぼ間違いないと突き止め確信した物を、確認するためだった。そして結末は、生き物のもつ巧みな仕組みだった。数億年に育まれた生物は、それほど安直なシステムではないのだ。
 そのことに、著者、そして読者は感嘆し、巷にあふれる命の中に神を見いだすのだ。

2008年8月30日土曜日

鰯の群れ



 鰯はなぜ群れるのだろうと、昔思った。鯨が鰯を追い詰め、その下から大きな口を開けて浮上し、鰯を丸呑みする。鰯は群れる必要があるのだろうか。群れなければ、鰯が大海に分散していれば、鯨は糧を得られない。鯨はおそらく自分を支えるえさを1匹づつ追い詰める体力と素早さは持っていないだろう。
 生き物は死を逃れようとする、これはそうだろうとおもうけど、恐れてはいない、とおもう。鯨を支えるため、鰯は自らを太らせて、群れて鯨を待たなければならない。それがシステムの一環。

 藤子不二夫の短編SFマンガに、"ミノタウロスの皿"という傑作がある。地球人の宇宙飛行士が放浪の果てにたどり着いた星は、牛に似た高等生物が支配し、”ウス”という人に似た生き物が彼らの食料となっている。人に似た生き物”ウス”は、品評会で最高の肉に選ばれることを名誉としている。そために自らを磨き成長している。クズ肉として食べられるのは不名誉なこと。
 品評会で優勝し、最高級肉として”おいしい”というその賛美を聞きながら、生きたまま食べられるのが最大の名誉なのだ。”だって、そのために生まれてきたのだもの”と、地球から来たパイロットの前で、美しいウスの少女が言う。皿に盛られて彼女が品評会会場へ向かうのと見て、招待された席につけずにただ見送る。
 きれいな少女が食べられるのはかわいそうだといっても、”地球人は肉を食べないのか?”との問いに、答えられない。

 死ぬことは悪くない。死にたくない、ことは悪くないだろうか。不老不死を願うことは、正しいことだろうか。長寿を祝えるだろうか。産まれることと亡くなることのバランスをどうやってとっていくべきだろう。

2008年8月24日日曜日

カメラのこと 

 カメラの魅力って何だろう。私の回りにもカメラファンが多い。かつての上司もそうで、モノクロのタブロイドフィルムで樹木や景色の写真を撮っていた。かつての部下は、式場カメラマンになりたいと、勉強してると言って高価なカメラを買っていた。ときどき山へ行くと年配の方々が、重たいカメラを担いで、巨大なレンズを小さな花に向けているのを目にする。嬉々としてファインダーを覗き込む姿が、万華鏡を手にしているように見える。カメラのレンズを通る景色は、よほどすばらしく見えるに違いないと思ったりする。
 カメラセンスのない僕は、カメラや写真を楽しめない。実は、写真にはがっかりすることがよくあるのだ。目の前のすばらしい景色を残したいと写真に撮るのだけれど、写真を見るとそのすばらしさが見えてこない。”ほんとはもっと感じるスゴイ景色なのに”ってね。そう言った意味で、”写真は創作作品だ”ともおもう。”撮影者の意図”を現すことのできる媒体だって。

 カメラのレンズは1つで、人の目は2つ。私の好きな錯覚や、トリックアート、だまし絵などはカメラを通すとその幻をよく映す。1つのレンズでは2つの目が見る物を補えきれずに、一部の情報が捨てられる。写真を見た人の脳がそれを補足するから、トリックやだまし絵は写真の方が不思議に見える。写真では不思議で判らなくておもしろいものが、現物を見てみるとがっかりと言うこともある。


 それにしても、最近のテレビで見る花火映像はとても不思議な絵柄だ。ちょっと前までは花火はカメラに写らなかった。闇が闇でなかったり、光の残像が残ったり。デジカメでは更にひどい。光不足に弱いのだ。
 花火撮影ではどうやって露光を拾い、焦点を合わせるのだろうか。闇の中で光ってすぐ消える像はとても難しい技術だと思うのだが。そう思うと、デジタル映像は編集が自在だから、花火などは合成映像ではないかと思うのだが。カメラ内部での技術のことで、シャッターを押す前に、自動で時間差で何枚も撮っておいて1枚に合成するくらいは、造作もないことだし。どうなのだろう。

弓月光のこと ~漫画家~


 漫画家、弓月 光 のファンだ。今はアダルト向けのマンガを書いているが、もう少し先には、ぜひSFマンガを書いて欲しい。きっと構想を貯めていると思う。
 弓月光の作品”甘い生活”は、今連載中のアダルト向けギャグマンガだが、所々にちりばめられた、SFのエッセンスが嬉しい。と、これを書いたのも、いま出張で泊まっている工業地帯のホテル群のてっぺんに、ヘリポートが見えたからだ。下から見上げると円盤が乗っているようで、”甘い生活”の背景に出てくるテレビ局に似た姿が連想される。アノ伝説の宇宙船に見える。

 弓月光は少女マンガの古株だ。自分が中学生自分には読んでいた。その頃の作品は、発明家物、マッドサイエンティスト物、人格交換物。マニアックと少女読者との危うい境を彷徨って、何とか生き延びてきたように思う。そのアンバランスな面に煮え切らない物を感じる。バアっと開放して欲しい。というと、今のアダルト路線は開放中なのかな?


 私の一番のお気に入りは、むろん本格SF、スペースオペラ(これも古語になってしまった)”トラブルエクスプレス”だ。緑のキチン質の宇宙船生命体の話は、スタートレックにも似てクラシカルな王道の物語だと思う。映画、”メンインブラック”を見たときには、このコミックのページを思い出した。
 日本のコミックの映画化ブームだけど、この作品が映画にならないかな。

2008年8月17日日曜日

万能の生物

 昔、”なぜ万能の生物がいないのだろうか”と、考えていた。生き物は死にたくない。死なないための方法や技術をいろいろな生き物が持っている。たとえば、人の頭脳と、ヒョウのすばしこさと、クモの糸、サソリやふぐの毒、亀の甲羅、カメレオンの擬態、、。生き物の設計図には様々な優れた部品が登録されていて、万能な生き物など容易にできると思う。死なないための方策いくらでもある。しかし、そんな生き物はいない。俗な言い方をすれば全ての生き物はどこか抜けている。最強の組み合わせを避けているように見える。

 やがてその理由が説けた。もしもそう言った最強の生き物が現れたとする。最強の生物は敵がいないからその繁殖を妨げる物はいない。その生き物は瞬く間に増えすぎてやがて、食料を失うだろう。地球という器もそこで産み出される糧も無限ではないのだ。結果、その生き物は自ら死滅するだろう。つまり、簡単な理屈なのだ、直線的では終わりになる。長い世代を存続しようと思えば、円、循環に組み込まれなければならない。増えたり減ったり、笑ったり泣いたりを同じくらいにしなければならないのだ。

 ”生き物は死にたくない”という前提が誤っているのだ。生き物は生き物を糧にしなければ生きていけないから、死ぬことを拒否できない。循環連鎖の中で、誰かが死ぬことを拒否すれば、彼らは連鎖からはじき出される。未来に生きることはできない。糧を得ることと糧になることは同意なのだ。そして、生き物全体を一つの系(システム)とすれば、たとえばガイア理論のようなものならば、全ての生き物が新陳代謝の対象となる。産まれて、貯えて、託して、消えていく。ガイアの循環の一部であることを拒否できない。
 DNAはおそらくどんな形でもかまわないから未来へその形を残したいのだろう。あらゆる可能性を追求し、あらゆる形を残し、不慮の事態に備えている。どのDNAを次が残ってもかまわない、残りさえすれば。
 種としての生き物は死を拒否していないのだ。例えば、示された死のルールに沿って時を過ごしている。大きな生き物の1つのセルとして。

 生きていく中で、必要で大切な物には快感が伴う。セックスや誕生、食欲や支配欲のように。死はとても大切な必須の出来事だ。まな板の上の鯛は、快感に打ち震えて死んで行くに違いないと、考えている。

脳とコンピューター

 ぼくが、心や意識、脳の問題に関心があるのは、一つに自分の疎外感のこと、つぎにコンピューターを取り巻く仕組みに類似性を感じるからだ。趣味兼仕事でパソコンとシーケンサー、それを組み込んだ機械を見てると自分の仕組みとの類似性を思わずにいられない。もちろん、人の形作る機械や仕組み、身の回りの物事には手本があって、それを産み出す手順もこの脳から産まれる。脳が知っていることからいろいろと教わっては具象化しているのが私たちの世界だ、とも言える。
 
 脳の発達を見ると、その低位は反射に見られる。特定の刺激に対して決められた応答を返す。単細胞生物の行動やら、我々の中にもある危険に対する反射行動はそれだ。CPUを組み込まない機械システムはこの形である。メカニカル制御とも呼ぶこのシステムはたとえば、初期の織機機械に見られる。カムとリンク、歯車やクランクが一方の動作を受けて、別の形の動作を返している。
 反射の信号を記憶したり、信号同士を演算して判断をするようになると神経節ができ、やがて脳となる。初期のシーケンサーは、入出力信号同士の演算をして結果を返す。シーケンサーに時間制御のタイマーが着く。一時記憶したり、時間的推移を記憶し、偏差をつかう。機械でのその上位制御では、動作部位にセンサーを備えて動作ごとにその推移を逐次把握している。各センサーからのデータを記憶蓄積し、演算し、差異や時間的な推移とその関連を分析整理し、出力信号を創り出す。
 今の機械では、CPUの中に、機械全体の動作出力信号、センサーからの入力信号をそっくり組み込み、バーチャルな状態でほとんどの動作を事前に再現できる。これは私たちの脳その物だ。”ホムンクルスの小人”と呼ばれる脳の中の感覚配置を模した絵のように、そこに繋いだ配線からその部位へ動作命令を送ることができる。

 パソコンの発達にも同じ物を見ることができる。パソコン初期の”マイコン”と呼ばれた時は、用あるごとにキー入力や出力の切り替え、それぞれにプログラムを書いて、信号のやりとりを意識してプログラムを作っていた。やがて、OSと言う名の基本プログラムにいくつかのプログラムが含まれ、機器との関連もその奥深くに仕舞われた。まるで、ミトコンドリアやゴルジ体を内包する真核細胞のようだ。ユーザーは、その名前を呼ぶだけで複雑な一連の命令が実行できるようになった。windowsに見るGUIグラフィカルなインターフェースは、これもホムンクルス同様、画面上のシンボルが実在の機器を示すようになった。windowsに見るディスクトップは、まるでパソコンが見る意識世界その物だ。私は時に、パソコンの見ている夢の中をのぞき見ている感覚に陥る。

 ”世界は脳で造られている”とは、この種の書籍でよく見られる言葉。私たちの意識し描いている世界は、私たちの感覚器で知覚できる範囲の世界だ。犬やフクロウ、モグラやハチは感覚器が違うので別の世界を描いているらしい。コンピューターに繋がれているそれぞれの感覚器も、これからは人の感覚器以上の様々な信号が与えられることだろう。そうすれば、コンピューターは人の想像の及ばない知覚世界をその内部に形造っていくのだろう。あらゆる周波数帯の光や音、磁力や放射線、あらゆる化学物質の密度変化を描画できる世界は、そこに住む生き物は現れるのだろうか。

 話がどこへ行くか判らなくなってきた。こんなところで。

2008年7月6日日曜日

物価は高くない

 人は、総合的な判断はできない。広い視野は持っていない。それどころか、人のイメージは集中固執の性質がある。続ければ続けるほど、その支配が広まっていく。だからこそ、集中力が産まれるのだ。

 食料品、石油、身の回りの品々を見る。値上がりが激しい。生活費に占める食費、住居費、エネルギー費用の比率を見る。様々な国や地域と比較する。それを批評するのはいい。

 しかし、テレビ、パソコン、携帯電話、化粧品、ファッション、車や高速鉄道、保険や医療費、水や安全、明日の保証などを見て欲しい。これらを世界の国や地域と、同じように比べて欲しい。わが国の例えば、食料やエネルギーを買い入れている地域では、私たちと同じ生活を実現していくためには、どのくらいを支払っているだろうか。私たちの階級は、彼らのどこに当たるのだろうか。”いくらお金を払っても追いつかない”という事はないだろうか。

 だから、ずるい。目的に合った都合のいい比較なのだ。

 水や電気の確保、暴力や略奪からの回避、明日や10日後の安否でなく、10年後の生活を心配していることが、どれほど高価で、贅沢な物かを感じられないでいる。世界基準から見れば、もっと高いお金を払ってもいいんじゃないか。
 それを払わないで済んでいることが、どういう事なのか。誰がそれをもらっていないのか、考えてみたい。

炭酸ガスじゃなく、エネルギー生産のせい

 温暖化は進んでいる。そりゃそうでしょ、私たちすみかのまわりで、熱が発生することはあっても吸収されることは何もない。いくら探しても見つからない。
 その、温暖化の原因を、”炭酸ガスの増加”のせいにするのは、やはり無理がある。炭酸ガス濃度の上昇は、温暖化の結果として現れた現象と見るべきだろう。炭酸ガスは、そんな大物じゃない。

 エネルギーを生産すれ熱が出るのだ、エネルギーを変換すれば熱が出るのだ、エネルギーを使えば熱が出るのだ。エネルギーを扱う限り、変換効率の差分だけ熱が放出される。金槌で鉄を叩いてごらん、熱が出る。運動すれば、熱が出る。病気を治そうとすれば体力の限り熱が出る。モーターを廻せば熱が出るし、車は冷却器がないと動かない。コンクリートも焼いて作る。発電だって、原子力だって、ほんのわずかなエネルギーをとりだすのに、どこくらいの冷却を必要とするのだろうか。必要なエネルギーの何十倍かが、絶えず熱として廃棄されている。言われてみれば誰もが気づくこと。全てのエネルギーの末路は、”放熱”なのだ。それは、エネルギー拡散の法則に乗って、宇宙へと散らばっていく。

 石油エネルギーだろうと、原子力だろうと、太陽エネルギーだろうと、どんなエネルギーであれ巡り巡って、結局最後に全て熱なる。つまり、エネルギーの代替を求めること自体、問題の全くの見当違いなのだ。これは、ゴミ問題に似ている。生産したら最後、廃棄しなくてはならない。途中消滅はあり得ないのだ。汲み上げた分だけ、作りだした分のエネルギーが、すべていつかは地上に放出される。難しい想像ではない。

 温暖化防止に必要なことは、エネルギーを生産しないこと、エネルギーを使わないこと、エネルギーを要求しないことを目指すべきなのだ。山や海が循環冷却できるだけのエネルギー産出に抑えるべきなのだ。

 しかしそれは、科学の進歩と、経済的な発展を否定することになる。欲を否定し、未来を否定することになる。エネルギー増加無くしては、迎えたい未来はなしえない。
 なににせよ、文明は未来を冷やすことはしない。生き物はいつでもどこでも熱い思いを持つ物なのだ。

2008年6月24日火曜日

老害だって、思う

 生まれた子供の三人に一人は亡くなる。平均年齢は50才。限られたエネルギーと行動範囲、ささやかな喜びと大きな哀しみを背負って、それでも感謝しながら活きていく。そう言った生活が、進化の波にさらわれずに種として残っていくのだろう。遙かな未来、新しい種が地上を支配しても、若気の至りを横目で見ながら暮らしていく。例えば今の、類人猿のように。

 長寿こそが、ちょっとしたかつ大きな過ちだと思う。寿命が延びることは決して歓迎すべき事ではない。生きることには限りがあるのだ。食物連鎖に見るように、ある生き物の死は次に生きる者の糧になる。限りある席は譲らなくてはならない。老いた者が何時までも欲望に身を任せて席を増やさせてはいけない。潔さこそが、理性のなせる技。いくつかの種に見られる、いつのまにか群れから消えていくのは、成体の証しなのだ。

 人口の増加は未来への大きな障害であるが、そのための産児制限は、より愚かで残酷だ。それを唱える者がいたら、それこそ老体の醜態以外あり得ない。生殖は止められない。それは生き物の定義部分。美容やファッション、恋や愛、ときめく気持ちを多少なりとも否定することはあり得ないこと。生殖亡くては生き物の定義が消える。死ぬまで恋はすてきれない。

 しかしながら、長寿は時間をもてあます時、大きな無駄使いとなる。出会うこと、恋すること、新しいいのちを迎えること、育っていくこと、それが最大の喜びであり生き物の頂点である、それを終えたときぽっかり空いた代わりをどこへ求めるというのだ。恋愛のすばらしさをお金に換える時、どれほどの膨大な無駄使いもそれを埋めることはできない。さまざまな欲望を次々と充足しても、それは記憶され更なる欲へと向かわせるが、もはや決して完遂することはない。あるいは、科学や進歩発展へと費やすとき、一時的な満足こそ得られてもやはり同じ事。科学の進歩や発達は、欲望の変わり身で、それにも同じようにきりがないのだ。
 
 幼体、成体、老体、と分ければ、一般的にその基準は生殖にある。その前、生殖期、その後だ。費やされるエネルギーは、老体の方が多くしかも益がない。老体一人に対し、幼体をどれほど養えるだろうか。欲の強さもたぶん、老体が一番だろう。幼体は育ちさえすればいいし、成体は、子供さえいればいい。動きのままならぬ体を抱えて、余計なことを想い命ずるのも老体だ。成体はその体力で自ら切り開いていけばいい。

 願わくば、そうそうに、静かに終わりが来ればいい。そっと席が譲れればいい。老いはそれを通り過ぎたことを意味し、決してもどることはないのだ。それは理解し、満足しなければならない。それはそれで良しなのだ。

2008年6月21日土曜日

イヤなことは、聞こえない。

 なるべく良い気分で居たい。それは、限られた時間を有効に使いたいし、物事がうまく運ぶし、早く終わるし、勉強も、技術の習得も、感動や快感も、良い気分の時の方が得やすい。
 だから、良い気分を大切にするし、悪い気分の時間を減らそうと思う。

 イヤなことは、聞かないし、見ないし、聞こえないし、見えない。われわれは全てを見ていないし、全てを聞いていない。全てを感じていないし、全てを理解できない。私たちの感じること、想うこと、理解することはほんの一部分なのだ。そして、多くの部分を想像や思惑や、気分で補う。まことに勝手気ままに脳は物事を決めつけて、判断する。

 悪口も同姓同名へのものなら気にならないし、理解できない言葉なら怒れない。聞こえないところで誰が何を言おうと、その事実があるのか無いのか判らなくて、怒ったり泣いたりはつじつまが合わない。すなわち、泣きたい、怒りたい、気分を害したい、そう言った楽しみがあるのではないかと想う。好きこのんで被害者になりたがっている、そんな風に感じる。

 現実と仮想の区別が付けば、仮想なんて怖くない。仮想で傷つくことが何か変だ。あなたへの罵詈雑言は、夢か現実か、判断するのはあなたの脳。どちらでもかまわない。聞きたければ聞こえるし、聞きたくないものは聞こえない。それが現実か仮想かは誰にも判らないし、どちらでも大して変わりはない。
たぶん、あなたが好きな方が真実なのだろう。誰がなんと言おうと、あなたが決めてしまえばそれが真実になる。
 そして、それは、個人個人が勝手に決めていてそれらは集まって思惑となり、世間を動かす。

他人との理解なんて、,,

 他人への理解よりも自分の内側の理解に目を向けたら?と思う。
 あの人は何故怒るのだろうか、あの人は何故非常識なのだろうか、あの人は何故、あの人は変、非常識、普通じゃない、、、、
 何故人は、他人と理解し合えると思うのだろうか。他人と自分が同じ基準上にあると思い込むのだろうか。なぜ、同じ立場という前提で物事をとらえるのだろうか。わかり合えない、通じ合えない、理解できない、測りかねない、それが本当だと思うのだがいかがだろうか。
 周りを見回す。何人か思い浮かべたその中で、あなたと同じ趣味を持ち、同じ本を読み、同じ番組を見て、同じ音楽を聴き、同じ映画を見て、同じような行動を取れる人が何人いるだろうか。あるいは、隣人の本の趣味を見て、隣人の好きなどラマを聞いて、隣人の音楽ライブラリを見て、同じように楽しめるだろうか。そう言った人が周りにいるとして、そうではない人との割合はどのくらいだろうか。

 そういった事を検証していくと、隣人との理解はとても出来そうにないと思う。だから、規律を作り、法律を作り、モラルを作り、共通の認識を明確化して協同作業を行うとする。作業や活動はそれでいい。ただし、想いや感情、好き嫌い、イライラと明快さはそれでは解決着かない。
 理解し合えない部分は当たり前に、あなたを刺激する。あなたの内なる声は、だれかれ無く攻撃する。何故そう思うのか、なぜ気分が変わるのか、自分の中への問い合わせは、受付れくれない。まあ、攻撃することの快感があるからなのだろう。
 
 理解無しに、うまくやっていければそれでいい。

2008年6月6日金曜日

私の思う多様性、,

 生き物の多様性とは、私の持つ認識は、”どんなところにも生息する。”という概念。ある生き物が居なくなっても別の生き物がすぐそこで増える。生き物の総量は変わらない。環境が変わっても、組み合わせが替わっても、そこに生き物は育ち、増えて、生態系というシステムを作り上げていく。それはちょうど、穴の空いたところを繕うようなもの。DNAはどこにでもいる、それが、”生き物の多様性”だとおもう。
 DNAは、あらゆる機会を得て、多様に変貌しようとしている。いろいろな条件下でDNAが破壊されることなく、途切れることなく、時間を乗り越えていく。そう言った試行錯誤を繰り返している。地下に、水に、空に、宇宙に、他の星に。
 ただし、1種だけでそれを行うとはしていない。いろいろな生き物がそれを支えている。それが、系、と呼ばれるもの。一連の連携によって、いつでもどこでも、何かしらのDNAが、時の試練を乗り越える。DNAは、いつでも分化し、増えることが出来る。雑多な種が、いつでも自分の出番を待っている。いつでもDNAを次の時へ運び出す用意が出来ている。それが多様性。

 種は入れ替わっていいし、絶滅してもいい。それはたいしたことではない。いつでもやり直せるし、誰もが新しい世代を生み出せる。たった一つの種がいれば、DNAはまた、次の多様性を復元できる。氷河期のように、あたらしい生き物の次代を生み出せる。

 たった一つの種が、妄想に乗じて思い悩むことではないのだ。

2008年5月24日土曜日

音楽はなぜ気持ちいい?

 音楽は不思議だ。誰もが聞きたがり、誰もが唄いたがる。それは興奮とエクスタシーを盛り上げて、意識を忘れさせる。音楽は音の連なり。音は空気の振動。空気の圧力差が鼓膜を経てカタツムリ管を振るわす。カタツムリ管の中はリンパ液で満たされいて、液の動きは底に張り付く何千もの絨毛神経を刺激する。複数の絨毛神経はそれぞれ異なる周波数を感知する。だから音を聞き分けたり、和音を感じたり出来るのだろう。聴覚神経から信号は脳へ。さまざまな関数へ渡されて処理され、結果として心地よさを産み出す。


 音には、共鳴、共振、うなりなどいろいろな合成、分波がある。異なった周波数の波がさまざまな形を造る。音楽には、音色、音程(ハーモニー)、リズム、の三要素と音圧(音の大小)がある。

 和音、ハーモニーは、複数の音、周波数の織りなす技で、共鳴、共振に通じる。音階の規則はここから生まれたという。ゆりかごのように、定まった幅を持つ者は心地良く感じる仕組みなのだろう。

 音色は、波形。音色は元となる音源の性質を表す。楽器の種類、音を出す動物の種。大きな発声機関(声帯)は低い音で、小さな発声機関(声帯)からは高い音が出る。これは発声元を識別できるだろう。

 リズムは、心地よさの最も要だと考えている。時間を漂う者はすべて自分のリズムを持っている。鼓動であったり、信号伝達の速度であったり、応答間隔であったり、さまざまな時間の刻みを繰り返している。リズムは、一定の速度、一定の刻み幅であることで定義できる。過去から何度か繰り返されたそれは、現在を経て未来も同じリズムを刻むと予想された時、われわれは安心を感じるのでは無かろうか。変わらないリズムは、かわらない状態のしらべ。

 今の状況が変わらないということは、周囲のリズムが乱れないことを意味する。このリズムを憶えていて、繰り返される限りは、その原因も、その先への注意も払う必要がない。すでに知っているリズムである限り、すでに知っていることしか起こらない。新しい不安に神経をすり減らす必要がない。それは安息と休息につながる。



 新しくきいたばかりの音楽と、聞き慣れた音楽。その違いは明らかだ。おもしろくもなくてイライラしながら聞いた音楽が幾度も繰り返されると、やがて心地良い音楽に変わる。そして記憶に深く刻み込まれて、その音楽は休息と安心の合図となる。その音楽のその先をすでに知っているから、安心なのだ。脳は知っている音程をなぞっている。記憶の中との整合が続く限り、周囲の平穏が確保される。膨大なオーケストラの長時間の演奏の中でも、間違った音程はすぐに気がつく。そして、リズムが途切れた時は即座に警戒と新たな行動を準備しなくてはならない。



 物事に集中したい時、自らの内部と応答したい時には、聞き慣れた音楽と聞き慣れた食べ物でコトに向かう。聴覚、嗅覚はいつも開かれた感覚器だ。外部のさまざまな変化を常時監視している。それを遮断しないと思考へのエネルギーの集中投与は図れない。だから、音楽を鳴らし、コーヒーの香の中で時に、柿の種をほおばり、時計を遠ざける。

2008年5月22日木曜日

頭のツールボックス

 進化というのは段階的に起こる。だから、ヒトの持つ機能のほんの少し前を、どこかの種が持っている。どの種の間でも階段の段差は類似していて、ヒトの直前だけ大きな段差が出来ているわけではない。人は特別な生物ではないのだ。

 ヒトは、数字を操り、物理を理解し、幾何や積分、論理の組立を行う。それをヒトだけの持つ特異な能力と考えるのは、いささか自慢が過ぎると言えないだろうか。進化のなだらかな連続見ると、系統樹の近い多くの生物が数字や物理、統計学を理解するのではないかと思う。むしろ、力学や電気、光の法則を我々だけが長い時間掛けてじっと熟考の末、発見した、と言う方が不思議なことなのだ。理解とは何なのか?新しい能力の取得とは何なのか。それは本当に新しい発見なのだろうか?ヒトのハードウエアは、なんら改良されてはいない。その仕組みは年千年前と同じなのだ。

 パソコンのOSは、関数の集まりだ。さまざまな関数があらかじめ組み込まれており、プログラムはそれを組み合わせてさまざまな機能を実現する。それを、ツールボックス、またはAPI(アプリヶーションユーザーインターフェース)とよぶ。元々はそれぞれが小さな計算式に過ぎなかった。それらを集めて機能的に配置し今のOSは成り立っている。必要な道具はすでに揃っているのだ。それをどうやって呼び出して、どうやって使いこなすかがその能力を評価する。

 力学も、天文学も、積分も、幾何代数も、生き物の中に存在すると考える。みんなそれを知っていてそれを使っている、と言うのはどうだろう。光を見て、風を感じて、方向を決めて、意図した位置へ手足を移動する。このとき、力学や幾何の計算が必要にならないだろうか。2つの目に映る物の位相から距離を測り、空から駆け下りて逃げ惑う小動物のそのちょっと先へ鋭い爪を運ぶ。更に細かな筋肉の動きを指令する時に、どんな計算が必要なのだろうか。
 クモの巣の張り方、蜂の巣の作り方。卵を産み付ける葉をさがすモリアオガエル。飛び立とうとする時の水鳥、呼吸のタイミングを見る海の哺乳類。少なくとも我々が彼らをシミュレートするには、そう言った計算式の組み込みなくしては計れない。

 つまり、意識するかしないかは、採り上げる問題ではない。証明は出来なくてもいいのだ。何も知らないまま、関数を呼び出して返り値を信じて使えばいいだけのこと。紙に書いたり、説明しなくてもいいし、それを訴えられないから、そこに存在しないというのも、イメージの貧困だ。じっさい、我々の感情や行動は、目的や意味、その出何処を知らないが、それを疑うこともなくそれに従っている。それはそう言うものなのだ。そう言う仕組みでいいのだ。
 犬も猫も、ネズミも、ハエやカエル、動物はすべからく法則集と関数計算機を持っている。そう考えると、ヒトが数式を理解できる、ということが不思議ではなくなる。膨大なライブラリーはすでにそこにあった。アクセスできる線がちょっとつながっただけのこと。偉大な多くの理論の発見は、脳の中のちょっとした小窓を覗いただけのこと。
 
 それに思い当たったきっかけは、サバン。自閉症の患者名の中に特異な能力を持つ者が少ない割合で現れる。彼らを、”サバン症候群”とよぶ。無限の記憶力、瞬時の計算、絶対音感や、景色の再描画、生まれながらの雑多な語学能力。われわれがとても取得し得ない驚異なその能力だが、彼らはそれを学んだのではない。欲したわけでも、関心を持ったものでもない。気がついたらそこにあったのだ。
 彼ら同様我々はそれを全く説明できないし、学ばせたり発展させたりもできない。それはただそこにあるだけの物。かれらは、我々の知らない脳のどこかが意識がつながっていて、それを言葉にし、我々に知らしめられる。複雑な計算もその過程を知らない。だけども使える。われわれだって、法則を知らなくても歩けるし、走れるし、物だって投げられる。一昔前の砲弾よりも我々の投てきの方がずっと命中精度がいい。宙を飛ぶボールだって受け止められる。鳩は投げつけられる石を簡単に避ける。それらはどれも、我々の言う物理法則に則った計算なしにはあり得ない。

 われわれは、何本か毛の少ないサルにすぎない。他の種から大きく離れた特異な生き物ではないのだ。そう思うと、たぶん、犬や猫にも意志があり、世界観があり、過去や未来がある。遠い親戚ではない。そうでなければ意思の疎通はあり得ない。同じ物を見、同じコトを感じている。

環境問題なんて、解決しない

 今日の環境問題解決へ、私は活動しない。解決は出来ないし、生物はそれが出来る仕組みになっていない。
 今日の環境問題の発端は、1つにつきる。人口増加だ。人口が増加しなければ、環境汚染は起こらない。そして人口増加の抑制とは、子供が生まれないこと、どんどん死ぬことを意味する。生き物はそれに抵抗するし、人はそれを絶対に受け入れない。だから、環境汚染は進むことはあっても、減ることはあり得ない、絶対に。それは、ヒトの存続にとって問題だが、それ以外には何ら問題とならない。
 ガイア理論のような、地球という一つの生き物の方向はどうやら、どんな形でもいいからDNAを存続させる、ということに見えてくる。1つの種が無くなろうと増えようとそれはたいした問題ではない。新陳代謝の1つに過ぎないのだろう。1つの場所が空けば、他の物がそこを使うだけ。意志は脈々と受け継がれる。
 さまざまな環境に応じて、さまざまな生き物を産み出してきた。これまであり得ない環境を作り出し、それに応じた生き物を産み出す。その繰り返しの中の1ページに、我々が今住んでいる。そう考えると、我々の環境問題は、必然的な過程とも考えられる。

 広がりすぎた。

 我々は仲間を見殺しに出来ないし、子供を諦められない。それは理屈でも計算でもない。抗うことの出来ない生き物の仕組みだ。人口問題や食糧不足の問題は、地球環境問題その物でどちらを優先するかで逆の方向を向くが、我々は一方しか選択しない。悲惨な人口増加の方が、地球環境保護よりは検討の余地無く重要なのだ。
 そして、身近な者達の10年後の生活の方が、遠くの国の10日後の生活の心配よりも明らかに重要だ。

2008年5月21日水曜日

mozic NetScape IE FireFox ハイパーテキスト


 ちょっと前に、ファイヤーフォックスの話をした。そう言えば、最初のHtmlブラウザってなんだっけな?と気になっていた。そうそう、モザイクだ。
 ハイパーテキストは、”ハイパーカード” から生まれた物じゃなかったのかな?ハイパーカードは、アップルマッキントッシュの優秀な、ユーザー用マクロ記述言語で、カードとテキストリンクから出来ていた。今で言う、ウィンドの切り替えがカードに当たり、ボタンや、リンク文字が、ハイパーテキストだった。

 ちなみに、HTML は、Hyper Text Makeup Language である。

 ハイパーテキストは、文字中に絵や図を組み込めるように発展されて、やがてインターネットブラウザとして、mosaic として世に出た。unix 用に続き、マッキントッシュ用がそうそうにばらまかれた。只だったね。
 インターネットは、文字情報の通信に限定したネットワークだ。それ故に汎用性と拡張性を維持できている。タグ、と呼ばれるキーワードを解釈するのは、それぞれのパソコンに組み込まれたブラウザで、送られるデータは、タグもワードも何ら区別されずに送られる。

 mosaic はやがて商用になり有料になって、NetscapeNavigater となった。安かったけどね。
 初期のMicrosoftInternetExproler は、NetscapeNavigaterの改良版として作られた。非力で遅くて、仕えなかった。ただし、只だった。しかし、IEは、windowsパソコンに標準となり、デスクトップとインターネットとの境を消していく。

 Netscape 社は、いつの間にやら、Mojila と名を変えた。いまは、FireFox を出している。
 ちなみに、今出回っているInternetBrowser は、以下である。
 IE FireFox Opera Maxthon Safari かな?

 以上

2008年5月20日火曜日

市場原理の崩壊

 市場原理はどうなってしまうのだろうか。
 ある人の思いは別の人に伝わり、また別の人に伝わる内に姿を変えるらしい。多くの人に信じられた世界観や方向性が、結局誰が何のために始めた物かを、説明できなくなってしまっている。

 お金はお金を貯めるだけのために行っている節がある。貯まったお金は、無くなるコトへの恐怖をどんどんと膨らませる。生きるためのさまざまな物を結ぶ、仮想媒体に過ぎなかったお金が、その元の品物の価値を勝手に変えていく。お金は、物と物とを交換する比率を示していたはずなのに、その物が消えてしまい、お金は仮想世界を勝手に膨らませていく。
 多量に収穫できる物は広く広まり、一般化する。希少な物は一部にとどまり小さなエリアで消化される。しかし、お金は、安いものをどんどん安くし、高い物に集まり益々値を上げる。それがヒトの生態なのだろうか。

 餓える人々でないと、飽食の人々を支えられない構造があって、その差額は芸能や、スポーツや、光るだけの物へ限りなく注ぎ込まれる。それは、とどまることが無くますますと差が開く。それ進歩と賞しますますと薦めていく。となると、それはまさに生態というべきだろう。

人智慧にすぎない、、、、

 これはもちろん、猿知恵 のことである。ヒトは特異な生き物ではない。ゴリラとオランウータンの差と、チンパンジーとヒトの差とはおなじくらいなのだろう。ヒトがヒトを評価して、進化の頂点というわけで、行動そのもは、蝉や、犬や、象や、ニホンザルと、何ら変わることがない。

 生態学やDNA分子生物学は、サルとヒトとの違い、ヒトとハエとの違いをたいした物とは見ていない。表に見える表現や行動こそ違え、その目的とする物、その優先順位、結果として得る物は同じ物なのだ。つまり、DNAを何処まで広げるか。DNAが生き延びる可能性を何処まで高められるかという命題に、ヒトもカエルも同じように目指している。
 自分に一番適した環境に変え、多くの子を産む。それだけのこと。最優先順位は子供を生むことで、ヒトも他の生き物もそれに一番エネルギーと時間を費やしている。生死を賭け、最大の快楽と、最大の苦悩とがそこに与えられている。
 大脳はさまざまな想像世界を作り、時間を過ごしていくが、”子供を産むことが最大の目的、”にたいし、疑問も持つことはない。例え誰かの大脳がそれに理論的な誤まちを見つけても、それに抵抗するいことはない。永遠に増えることがあり得なく、増加の先は破滅だと、私たちの脳は理解できる。循環とは、増えもしないし減りもしない。うまく調整制御することが循環、すなわち果てしなく長い存続の方法だと判るが、それをすることはあり得ない。生き物は、果てしなく子を増やし、環境を更新し、そして滅んでいく。当たらし環境に新しい種が迎えられる。それは、かつてのは虫類や、さまざまな種が出来なかったように、ヒトにもそれは出来ない。他の種と同じ行動が脈々と受け継がれている。

 我々は、我々をコントロールできない。生態系の何に対しても制御も影響も与えられない。なぜなら、我々はそこで踊る演者であって、演出家ではないからだ。

2008年5月3日土曜日

物価は上がってもいい

 周りには安価な食材があふれている。ほとんどが輸入品。安価、輸入品、そのわけをちょっと考えてみる。国産では価格的に太刀打ちできない。コスト競争に負ける。輸入材はコストが安い。人件費が安い。この人件費ってなんだろう。たぶん生活に必要とされる費用だと思う。それが安い。
 われわれに食材を提供してくれる彼らの一部は、車を持たない。テレビを持たない。TVゲームもなく、携帯電話も持たない。ましてや安全や、健康、衛生もない。”その分コストが安い”、という構図にならないだろうか。これを搾取と呼べないのだろうか。彼らがわれわれの生活に近づけば、そうでない調達先を探す、そういった戦略だと聞いている。それがわれわれを支えている。
 かたや、野球とはいえ、サッカーとはいえ、芸能、ミュージシャンとはいえ、人気で年に何億も支払われるのは、また、ブランド品、美容、装飾、が産業の上位に来る。これを狂乱とみるのは、おかしなことだろうか。それを当たり前としているわれわれは、なんなのだろう。

 物を作る人が、それを提供してモノつくりを続けていかれない状況と、片やはるかに切り詰めた生活から生まれる安価な品が生活基盤を支える。食のわずかな値上がりに声を上げ、バーゲンでブランド品をあさる。
 安全や食料や健康よりも、便利さや安さ市場原理が優先される状況は、そこから一歩離れてみれば不可思議な状況だ。続くものではないだろう。

 格差はエネルギーを生む。これは物理法則。蓄積されあふれるエネルギーは容器を破壊する。

 

2008年4月29日火曜日

もう一人のゾンビ

 頭の中にもう一人いる。言われてみれば思い当たることがいくつかある。

 車を運転する。何か他ごとを考えていても、ちゃんといつもの道を走っている。信号で止まって一旦停止で止まって、事故もなくすすみ、はっと気がつくと家の近くだ。また、ゴミ箱にゴミを放り入れようとする。何気なく放るとすっと入る。おっとと、これはすばらしいと意識して狙うとこれが入らない。無意識のうちに投げたゴミをコントロールしていいるのは誰だろう。
 自転車に乗る。ハンドルを握って、バランスを取りながら脚をペダルに乗せる。倒れそうになったら力強くペダルを踏むとバランスを取り戻し、自転車は姿勢を立て直す。そうやって自転車の乗り方を学んだ時から、いま、何も思わなくても乗れるし、どの方向へも自由に行ける。いま、自分に変わって自転車のコントロールをしているのは、いったいだれなのだろう。
 年を取ると耳が遠くなる。そこで補聴器を使う。補聴器を始めて着けた人には、騒音がうるさくてしょうがない。全く別の世界なのだ。つまり、普段何気なく無視できている無用な音ががきこえてしまうのだ。 
 であれば、普段聞きたいモノと聞きたくないモノを脳の中で分けているのは誰なのだろう。雑音と聞きたい音を分けているのは?
 私たちが意識と呼ぶ領域に、データをきちんと整理して送ってくれる誰かがいる。身の回りの膨大なデータをより分けて、意識に挙げてくれる。意識しないデータをきちんと整理して憶えておいてくれる。必要な時に大切なデータを引き出してくれる、誰かがそれをやっていてくれる。意識に上るよりも遙かに膨大な量のデータを素早く処理してくれるもの。
 私たちの知らない、本当の私。

2008年4月28日月曜日

ゼロサム と言う言葉

 ゼロサム zero-sum だと思うけど、一時期流行った言葉。覚えている方も多いと思うけど、地球上はこれだと思うんです。意味は、合計するとゼロになる。言い換えると、総量は同じだよ、配分比率が変わるだけだよ。エネルギーも、資産も、糧も、合計は不変で、我々地球上でそれを必要として欲する者達が、分け合っているだけではないか。と思うのです。
 
 石油も、食料も、水も、安全や衛生も、医療や暴力も、誰かがそれを逃れた分、誰かがそれを抱え込んでいる、という構図はいかがだろうか。割り算の演算を思いだして、分子は一定で分母が増えれば割り当てが減る。人口が増せしてみんなに配分すれば割り当ては減る。あなたが望む生活レベルと安全と未来を獲得したければ、総量が同じセロサムを信じるとすれば、その割り当てに参加する人数を減らなければならない。 これが今の現実的な世界構造だと考える。つまり、貧困格差の拡大こそ、幸せを望む人の願いが叶えられる。これは、誤った筋道ではないと思うけど。
 さらに、エコロジカル(生態系)は、ヒトには制御できないところでバランスを取っているとおもう。慈悲と愛護による人口とエネルギー消費の爆発的な増加は、もうすぐ他の多くの生き物に再び場所とエネルギーを返すことだろう。これは筋の通っている話だと思う。

いつでもどこでも誰もがイライラするのはなぜ?

 なぜそうも、誰もがいちいちイライラするのだろう。あれこれ気になるのはなぜ?

 それだけは許せない、言いたいこと、そうあるべき事、言わずにいられないこと、そうじゃないだろう、間違っている、正しいのは、、、、。
 そんな言葉が交わされるたび、やはり我々は争うべき資質を持っていると思い知らされる。争い、攻撃し、自分の優位さを、機会が有れば示そう、難癖を付けて戦おう、それこそが生きると言うことだと見える。 見るもの聞くモノ、動くモノ、触れるモノ、五感の全てが対象を、良い、悪い、そうあるべきモノと有ってはならないモノ、許せるモノと許せないモノとに選別しながら、そのじつそれらを共有はごくまれで、ほとんどの場合誰もが勝手に定義し、強い意志で誰かとぶつかり争う。
 一方、道に石が落ちでいる。空に雲が浮いている、さわやかな風が吹く、それにもいちゃもんが付けられるが、ケンカは出来ない。相手にならないし得にもならない。だからケンカをしない。 ”ケンカをしないで見過ごす”、という選択肢がある。実際にそう言った行動はあるけれど、人の感覚はそれをほとんど見過ごせない。何でもかんでもカンに障り、イライラのネタになり、人を攻撃的にさせる。もしくは我慢をすることで、イライラを蓄積をさせてより大きなケンカへとエネルギーの充填をする。
 そうでなくてはならないこと、そうあるべき事、良いこと、悪いこと、許せることと許せないこと、そのほとんどはだぶん大局的にはどうでもいいことだ。見過ごせば過ぎてしまうこと。感じなければ過ぎてしてまうこと、解決する必要のないことばかりだ。解決できないイライラを除けば。
 要するに困ったモノは問題事象ではなく、それをイライラさせる脳の仕組み、本能なのだ。隙あらば相手を攻撃しようとする、また、自分の優位さを示しそれをおびやかすものを排除しよう、そうすればイライラを消してやるという生き物の仕組みなのだ。
 欲はイライラを産み、小さな満足に欲は味を占め大きな満足に向けてイライラを増す。欲と満足は果てしなくイライラを増していく。